天もなく、地もなく時間も空間もない…遠かなる昔、大虚空中に葦の芽のように一点のヽが忽然とあらわれた。この無形無声無色の純霊を『古事記』では天之御中主神といぅ。ヽは澄みきり澄みきりつつ次第に拡大して一種の円形をつくる。このとき、湯気よりも煙よりも霧よりももっともっと微細な二種類の神明の気を放射する。霊素(火素・陽素)と体素(水素・陰素)だ。この霊系の祖神を『古事記』では高皇産霊神(たかみむすぴかみ)、体系の祖神を神皇産霊神(かみむすびのかみ)という。この二つの神名にあるように宇宙には〝ムスビ″ (産霊)という不思議な作用がある。”言霊学では”ムス″ は座す・蒸す'“、ビ” は霊・日の意で'すなわち”結び”とは単なる連結ではなく'命(いのち)(霊・日)を生(産・蒸)み出す力である。酸素と水素の結びによって水が生まれ'陽極と陰極の結びによって電気が生まれ、男女の愛の結びによって子が生まれる-。言霊学では'霊は”チ” または”ヒ”、'体は”カラ” であり'”カラタマ”である。霊素(チ)と体素(カラ)を結んで霊体を生む。もともと、体は霊を宿すべき容器'、殻・空魂であるから、この穀に霊気を満たして'二元を結び力を生む。もう少し耳なれた言い方をしよう。宇宙には神霊原子ともいうべき、火(蛋)素・水(体)素があり'、相抱擁(あいほうよう)帰一して精気となり、いわゆる電子を発生、それが発達して電気となる。これが宇宙の活動力の源泉となり、動・静・解・凝・引・弛・合・分(どうせいかいぎよういんちごうぶ)の八力が完成される。「宇宙の本源は活動力にして'すなわち神なり」の意である。『古事記』の冒頭の一節「 天地の初発のとき'高天原に成りませる神の御名は天之御中主神、次に高皇産霊神'、次に神皇産霊神、この三柱の神にみな独身成りまして隠身なり」の造化の三神にあたる高皇産霊神も神皇産霊神も'天之御中主神が活動されるときに生ずる霊体二元の働きを表現した神名にすぎない。だから真の神とは三神即一神にして三位一体の関係にある。他に比類するもののない独一真神であり、その霊・力・体の大元霊としてのおはたらきは幽の幽、神秘の最奥にあるから隠身といえる。この宇宙の大元霊について、古来、人類はいろいろな名で呼んできた。主神'、独一真神'造物主・・・-、キリスト教ではゴッド'、ユダヤ教ではヤーヴェ、ギリシア神話ではゼウス'、イスラム教ではアラーの神、中国では天・天主・天帝、易では太極、日本神道では天之御中主大神、仏典でこの概念に近いのは阿弥陀如来。大本では大国常立大神と尊称する。呼び名はどうあれ'、ただ1柱の真の神であり'別の神があるわけではない。さて、高熊山に戻って、'一種の円形となりながら放射した神明の気(霊素・体素)が圏を措いて円形を包み◎となった。このとき'寂然たる無音の虚空に初めて澄みきったスの言霊が発せられる。スはス・ス-ス-ウと四方八方に限りなく極みなく伸びひろがりふくれ上がり、'鳴り鳴りて鳴りやまず'極まって、ウの言霊を生む。ウは万有の体を生み出す根元であって、'ウの活用極まって上へ昇りつめ、アの言霊を生み、下りに下ってオ声を生む。こうしてアオウエイの五大父音、'やがてカサタナの九大母音が生まれ、広がって'七十五音の言霊が発生。その発する霊波は荘重なる和声となって宙にみなぎり、清軽なるものは霊子の根元となって空を浸し、重濁なるものはしだいに下って物質の根元となる。『古事記』の「天地の初発のとき'高天原に成りませる・・・・・・」の成るは鳴るの意で'「天地剖判の時、ターカーアーマーハーラーと鳴り響いた--」となる。「ヨハネ伝」首章に「太初(はじめ)に道(ことば)あり、道は神とともにあり、'道は即ち神なり。この道は太初に神とともに在き'、万物これによりて造らる。造られたるものに一として之に由らで造られしは無し」とある。コーバは道ではなく、天地に満ち満ちた言霊のことであると王仁三郎は言う。仏教でも「阿(呼気)・吽(吸気)」と言い'寺院山門の仁王やコマ犬がその姿を示し'、菩提心と涅槃をあらわす。密教では、阿吽で法界(全宇宙)万有を摂し、阿は一切が発生する理体'、吽は一切の終結する智徳をあらわす.このように、仏教でもア・ウンの言霊の重要性を説いているが'ア・ウンの元にスの言霊のあることが示されぬため、ス(主)神がわからぬ。万有いっさいの現象は、必ず「幽の幽」、「幽の顧」、「顕の幽」'「顕の顕」の順序を経る。たとえばここに私が存在する。ということは'父母の出会い以前にすでに潜在的、意識的に私の生まれるべき素因'いわば霊子があったからだ。が、これは「幽の幽」の世界。地上界での父と母との出会い、その愛の.発現である想念の中に私は「幽の顕」となった。愛の結び(産霊)によって胎内にヽを発生、それは◎なり、次第に成ってほぼ十カ月、たいこれは「顕の幽]といえよう。胎内から現界に出て肉眼に触れたときが「顕の顕」。しかしやがて死ぬと私は「顕の幽」の世界に戻る。あるいは'念願の家を建てるとしよう。決意したときは「幽の顕」だが、それ以前の意識を「幽の幽」とする。何かの理由や原因があって家が欲しかった、あるいは無意識に求めていた期間である。さて'決意したとなると具体的な計画が必要だ。建てる場所、予算、様式、'設計、着工及び完成の見通し、'施工者の選定等々'これらが「顕の幽」である。現実に家が形を現わし始めてからが「顕の顕」に入る。宇宙の進化も'隠身から現身へとその順序を経る。大元霊たる真の神の「幽の顕」の段階での神名が'出口なお・王仁三郎にかかったという国常立命 (艮の金神)・豊雲野命(坤の金神)。それから派生する万化の動きを名づけて八百万の神、これが,「顕の幽」となる。つまり幽の幽たる一点のヽに始まって'、大元霊たる◎ の大神はその火水(いき)を結んで力を生み、千変万化しつつこの宇宙を造られた。この造化の働きは久遠にめぐりうつりをくり返しつつ進化していく。天地間の森羅万象は人も含めて「顕の顕」となった神の姿、'神の体の断片といえよう。この宇宙間には'神の霊・力・体が活気りんりんと満ちあふれ、現界にある万物はその霊・・力・体をなんらかの比率でもってわかち与えられて成り立っている。とりわけ人は神の属性をすべて完全にわけ与えられているから、人は「神の子・神の宮」だと王仁三郎は言う。神と人との関係について'大本教旨は明示する。「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の主体也、神人合一してここに無限の権力を発揮す」神について、人について、神と人との関係について三段にわけて説く。第一段は万物に普遍している霊が神であるときわめて簡潔に汎神論的に説かれているが、当然、われわれの祈りの対象は、その遍在する霊の総本源にさかのぼって大元霊に向けられなければならない。第二段で人は天と地の現実界と霊界のすべてを整え治めるために構想し実践すべき主体、'責任者であるとしている。さらに第三段で何を告げているのか。「神が絶対善・絶対愛であるならば、'何故こんな不公平な世界をそのまま放擲しておられるのか。なぜ、さっさと万民和楽の世界を作られないのか」と神への不満をよく聞くところだが、それは神についての正しい認識に欠けるからだ。神は霊である。神の霊を止める存在が霊止であり、人が神の体の役割をする。霊と体とが合一して初めて霊体が生まれる。目の前のコップ一つをとろうとしても指が、'手が、'頭脳が'、神経の全体が協力しなければどんなこともできぬ。つまり霊だけでは何一つできないのだ。むろん体だけでもできない。肉体は健全でありながら霊魂の働きが停止しては'昏々と眠り続けるほかはない。宇宙剖判以来、この地上に楽園を築こうとされる神の意志がどれほど熾烈であっても'神の体の役割を果たすべき人類が神より与えられた主体性をいいことに神を押し込め、神など無いものとして好き勝手に動いたのでは、'いつまでたっても理想世界が実現し得よう道理はない。人が神に心を開き、その意志と一体になってこそ'無限のカを発揮できるのだ。世界中の宗教者が'ただ神に祈るだけでなく、'全人類の平和と幸福のために宗教的エゴを投げ捨て手をつないで立ち上がるならば'、神の意図する理想世界への巨歩を大きく進めることができよう。精神上の迷信に根ざせる宗教、物質上の迷信に根ざせる科学はともに真理に遠い。神と人、霊と体との激しい結合によって火花のように発する奇跡的な力'、神秘的な作用こそ'神力・法力と名づけるものであろう。霊・力・体の三大原則から出発せねは誠の真理は生まれない。王仁三郎は、「ナザレの聖者キリストは神を楯としてパンを説き、マルクス'パンもて神を説く」とうたっている。神霊が宇宙に遍在しているならば、'なぜ'神社'仏閣や神棚に向かって手を合わすのかという疑問が残ろう。われわれのまわりには'ラジオやテレビの電波ととびかっている。それらのスイッチを押して見るまで「そんな電波が聞こえたり見えたりなど'バ一カな」と思う者が今日いるだろ-か。ところが'宇宙の霊波の中にひたりながら、いまスイッチの押し方を知らないわれわれは'そのままでは感じとることができぬ。ラジオやテレビに代わる何かの受像機がいるとすれば、'神社や神棚が'それにあたろう。心を神に向けて一筋に手を合わすとき'スイッチは押されて、神霊との交流がより可能になるからである。
神殿に神は在さねど 人々の斎つかむたびに天降りますかも (王仁三郎)
神について或る程度語ったところで、もう一度'大本神話の含みもつ意味をふり返って考えたい。国祖は、天地の修理固成の主体に霊止を以って任じたまうた。第一に地球全土に人を分布される。 「生めよ繁殖(ふえ)よ、地に満てよ、之を服従せよ。叉海の魚と天空の鳥と地に動く所のすべての生物を治めよ」と『旧約聖書』の創世記にもあるとおりである。第二には'地上に満ちた人類に邪気を生じたため、神の意志を宿して理想世界を建設するべく天地の律法を定められる。律法とは'内面的に<省みよ><恥じよ><悔い改めよ><天地を畏れよ><正しく覚れよ>の五情の戒律であったが、これは神より賦与された直霊の働きのままに即したものである。しかし'これらの規律を守って泰平に治まった世は短かった。人類の体的欲望がしだいに省みる心を失って恥を忘れて争い、'奪い合い'過ちを悔いず'、許さず、長上に逆らい、嫉妬み、誹(そし)り'偽り'、盗み、殺し合い--地上の乱れは顕の幽である地上神界に必ず写る。ついに万神は、律法を毫もゆるめぬ国祖を呪って天の大神に直訴し' 艮に退隠せしめるに至った。ここまでの大本神話で疑問とするところは、なぜ天地の主宰神、全智全能であるべき国祖クニトコタチノ大神が、悪神ごときによって艮の一隅に押し込められなければならなかったかという点であろう。それでは視野を転じて、これを己が身と考えたらどうであろうか。神なぞどこかの片隅に押しのけ忘れ去り、ついでに良心(直霊)の小うるさい干渉にも耳をふさいで、日々の生存競争のために営々と心を費やし'余力はただ己れと家族の快楽に捧げて足れりとする。人生をそれでよしとするなら、国祖など'やっぱり沓島あたりに閉じこめて再現せぬよう祈るほうが気楽である。しかしこういう思いが人類全般に広まれば、人体に宿るべき直霊はゆがみ、'神の代わりに獣性を心の家主とする我利我利亡者が地上に満ちよう。こうなれば、いかに全能のスサノオノ命といえども'、なす術もなくただ泣くはかはないではないか。キリスト教では人を〝罪の子″ と断じた。パウロもロマ書の中で'「我は罪人の首なり」と苦悶の叫びをあげている。古代聖人君子と呼ばれたほどの人でも、省みて内なる善と悪との矛盾対立に苦悩しない者はなかったであろう。それでも大本神は、人を「神の子・神の宮」とし、「神の断片」であるとする。この世には絶対善もなければ'絶対悪もない.善悪は'時・処・位によって変わるのであり、”善悪不二”、”善悪不離” “善悪一 如” … 善の中にも悪があり、'悪の中にも善がある。霊と体の結びによって人は善悪美醜あい交わり、活力を産むのである、と王仁三郎は説く。善悪・美醜・上下・明暗はすべて表裏一体、これはみろくの世になっても変わるまい。それでは神はいったい何をもって善となし'悪と審判けられるのであろうか。人は誰しも霊能(霊的性能)と体能(体的性能)をあわせ持つ。霊能とは正義・純潔・博愛・犠牲などを求める最高の倫理的'審美的感情の清らかな源泉である。体能とは飲みたい・食いたい・着たい・眠りたいなどの体的欲望であり、それは放っておけば限りなく深まり'堕落・放縦・排他・虚栄・利己へとつながる。だから'霊能が善、'体能が悪と決めつければ気はすみそうだが、どっこい、どちらも大元霊から分かれ出る相対的二大元質であって、一方を切り捨てるわけにはいかぬ。体欲を殺しては人は生きてゆけない。また、霊能をつみとっては人が人でなくなる。それでも二元を結んで生じるカが方向を定めて動こうとするときには、一方をわずかでも主とし、他方を従とせねばなるまい。たとえば右足・左足の価値に軽重の差はなくても'どちらかを先に踏み出さねは歩けないのと同様である。どちらを主に選んでリードするかが'じつは善悪のわかれ道となろう。宇宙は霊界が主であり'、現界を従としている。したがって人も霊能を主とし、体能を従とする霊主体従のあり方がスサノオノ命の神教であり'理想世界へと続く-善の姿なのだ。しかしそのつり合いは主従あくまで五分と五分。それゆえ体八霊二から発する力は'いかに強烈であっても物質偏重の悪の容物でしかあり得ないわけだ。霊六・体四と'霊に片寄って現実世界を軽く見るのもまた悪となる。神と人、'霊と体、善と悪、男と女の円満なるつり合いが真つり合う状態である。真つり合いを正しくとっていくのを政事(まつりごと)と、わが国では称してきた。政事はまた、祭事でもあるから'古来祭政一致を文明文化の理想としたのであった。こう考えてくると、大本神話の国祖隠退という表現には'新しい意味が感じられはしまいか。宇宙の成り立ちの始めにおいて'厳正剛直一方の国祖の支配下では対立の生ずる余地もなく'鳴り鳴りて鳴りやまざる宇宙の活動力からは少しく不足であった。激しく波動する顕の顕、地上の物質文明の進歩発展をうながすためには、むしろ体主霊従を一時期まで黙認するしかない。幼児期、成長期の子供の発育を願うあまりに、あえてわがままを許す母親みたいなものではなかったか。つまり物質と精神とのつり合いがとれぬいびつな状態のまま'この世は一時期放置され、体の成育を待ちつつかげながら'はらはら見守っている天地のありさまを寓意化し神話として表象されたものと思えてくる。『古事記』にも『日本書紀』にも'クニトコタチノ神がこのように隠退された話は書かれてないが、意味深長であり、人類史の進展のさまを暗示するうえで優れた神話だと思う。前にも述べたように、わが国では古来”八百万の神々” という言い方がなされてきた。これを神が八百万(複数の意志として)存在するというふうに受取られがちだったため'西洋の宗教学から原始的な信仰の形ときめつけられてきた。この形が〞多神論″ という呼び方で一括され' 〝一神論″ の立場にたつキリスト教よりも次元の低い野蛮な宗教という見方に甘んじてきた。これはまったく認識不足である。幽の幽に在す唯一絶対の大元霊(宇宙意志)が、二元に現われ、産霊の言霊によって三(み)、'四(よ)、五'(いつ)、六(むゆ)、七(なな)、八(や)、九(ここのたり)、十(たり)…百千万(ももちよろず)と万有生成化育をとげ、'顕の顕の地上世界を産み成してゆく。八百万(多数)の神というのは'、その千変万化に展開する顕の幽界での活動力の一つ一つに付けた御言(命)名なのである。つまり、一つの宇宙意志が無数に分かれて活動するさまを表現したのであって'、 一本の扇子をパッと開いたように多角的な広がりはもつけれども、閉じれば一つ、ただ一神あるのみである。一つのものが、いつまでも1つのままの姿でとどまっているなら'無数の展開による活動力など望めない。”唯一絶対神” しか認めないのは'宇宙意思を縛りつけ'動きのとれないものにしてしまったキリスト教やユダヤ教、回教などの考え方だ。『ヨハネ伝』において「言(ことば)は神なりき」「成りたるもの一つとして之によらで成りたるはなし」と宇宙の根元を見抜きながらも、産霊を知らず'、霊なる一元を以って教えを説いたため'体と力との関係にまで飛躍発展できなかった。霊力体が三位一体となって働かなければ、'いかに道を説いても神の御国はつくれぬ道理である。西洋の宗教学は神観において金縛り的唯一神信仰に優越を感じているから、いつまでも狭く固い考え方しかできないのではないか。神話的表現として、八百万の神々が律法を厳守するクニトコタチノ大神を良に押し込めた--というのはどう解釈したら適切なのであろうか。一神即多神の原理をあてはめるなら'国祖も万神も本来は宇宙意志の働きの現われなのであって' “善” とか”悪” とか対比以前の状態であったろう。そのような静的な調和の世界の一方を破って動の方向に進化せしむるためには、あい反する対立を打出すのも止むを得ない。国祖の隠退(律法の空文化)という産みの苦しみをもって、人類に与えた自由意志に基き'地上体的の物質文化の修理固成を待たれたのだと考えれば、納得できるのではなかろうか。いわば同一線上に揃っていた両足が静止を破って前進を開始する状態なのだ。一方の足が前に出るために後方に残された足を艮の金神と見立てよう。これが何千年かかったか'、… ともかくたいへん長い歳月が地上人類に流れたわけだ。そうして今や、前方に伸ばされた物質文明の足に重心がかかりきって、こんどは後足をさらに前方に移さねば破綻は必至とよろめきはじめている。そこで、 「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ…」の端的宣言となって精神文化の夜明けともいえる後方の足の前進が開始されたのであろう。だから、この『大本神論』をば'宗教団体としての大本のみに通用するものと狭く限定解釈してはならないと思う。体主霊従的文明から霊主体従的文化へと世界人類史上未曽有の価値観の大転換が予言されたのである。それを思うと' “大本” の思想の根底が'あまりにも世間に知られていないことが残念である。
弾圧開始! 第一次大本事件
大正八年十一月十八日早朝、長髪をきりりと紫のひもで締め、白鉢巻にたすせ十文字、たっつけ袴で名馬金竜・銀竜に打ちまたがった青年志士の深町・木嶋は'風のように福知山を出て沿道の人々を驚かせつつ東へ東へと疾駆する。目的地は明智光秀の旧居城亀山城祉、「福知山出て長田野こえて駒を速めて亀山へ」の福知山音頭を地で行ったのだ。何のためになど'命じた王仁三郎のほかは誰も知らない。光秀の霊を祭った御霊神社のある明智の旧領地福知山から光秀の居城あとへと早馬をとはすからには、危急存亡をかけて元城主の御霊を迎えたのでもあろうか。同じ朝、王仁三郎は綾部駅へ急ぎ、たまたま参拝のために汽車を下りてきた東尾吉三郎と出会いがしらに声をかけた。「待っとったで。あんた金持ってきたやろ。さ、いっしょにきなはれ」 きょとんとしている東尾に有無をいわせず、王仁三郎は次の汽車で引き返えさせ'ともに亀山城地へと向かう。亀岡は廃藩置県まで亀山といったが'、王仁三郎の少年時代にみる夢は天下五城の一つとされた明智の城、'白壁映ゆる天守閣であったのだ。今は荒れ果てて雑木と瓦磯の山に狐狸'、大蛇がすむばかり。ただ天守閣跡には光秀手植えと伝えられる大銀杏が天下取りの名ごりを留める。光秀没後はどの大名が城主となっても崇りが激しくて住むことができず、'居城は外に構えて'亀山城は無人となっていたらしい。深町ら二騎が到着するや、王仁三郎は旧天守閣跡にのぼって'亀山の名の由来ともなる亀頭の形の亀岩上で天津祝詞を奏上'、天の数歌をのりあげて一帯の邪気を払った。それから二青年に命じてこの城地の持ち主、田中源太郎邸に向かわせ買収交渉に人らせた。彼自身は東尾を連れて穴太の産土・小幡神社に向かい'社前に祈願を捧げる。まるで討ち入り然のかっこうで馬を乗りつけた二青年には、貴族院議員田中源太郎もさぞ驚いたであろう。実はこの日は'京都府が土地収用法を適用して城跡を二足三文で強制買収しようとし、さんざんこじれたあげくのぎりぎりの限度であったのだ。売値は三千円、即座に半金を手付けとして支払うというのだから、田中の番頭も手を打った。二人は穴太に駆けて王仁三郎に報告、ただちに感謝の祝詞を奏上、'契約は即日に成る。王仁三郎は一文も持ってはいない。このとき東尾が懐中していたのが、ぴったり三千円であったのだ。思わぬ大金がころげ込んだので'神さまの御用に役立てようと汽車に乗ったその日であった。城祉一万三千五百坪、登記完了は十二月六日。何事も神示のまま'霊主体従的遂行の結果であろうが、電光石火といわずして何であろう。宣教は東京、'京都、大阪へと都心にものび広がって'明治、専修'慶応などの各大学講堂はじめ各地の講演会場はあふれんばかりの盛況である。綾部の神苑拡張整備も本宮山を入手して一段と進み' つぎつぎと建物も造営される。大正九年(一九二〇)には建坪四四四坪、五六七畳敷きの拝殿みろく殿が竣成する。
亀山城址は王仁三郎によって天恩郷と命名された。大本では教祖が二人(出口なお・王仁三郎)'、教典が二つ(大本神諭・霊界物語)。そのうえ二大聖地'、綾部・梅松宛、亀岡・天恩郷を擁したのだ。梅松苑は祭祖の中心地で天国を、亀岡天恩郷は宣教の中心地で霊国を、それぞれ型として地上に移写したと王仁三郎はいう。教勢が加速度をもって拡大するにつれ'世間の大本攻撃もまたおとらず激化する。新聞・雑誌は競って大本批判の記事をのせる。警察当局がそれらに注目せぬはずはなかった。波紋は波紋を呼び、さらにもう一波乱、'あっと驚異の目をみはらすものに『大正日日新聞社』の買収とその経営がある。『大正日日』は大正八年十一月'、大阪梅田に創立された新聞社で、規模と内容は『大阪朝日』『大阪毎日』と比肩されるものであり、当時の一流ジャーナリストが参加していた。資本金二百万円(当時の朝日新聞社の資本金百五十万円)で'その発足と活動は『朝日』・『毎日』の強敵と見られた、しかし『朝日』・『毎日』の強固な販売網は容易に破れず、経営はしだいに困難となり、一年たらずで身売りという逆境におち込んでいった。大正九年八月五日、王仁三郎は『大正日日新開』買収仮契約をすませ、十四日には本契約が成立した。一宗教団体が時事新開を発行するなど世界的にも珍しく'、もちろん日本では前例を見ない。しかも朝・夕刊発行の全国紙である。大本の手による復刊第一号は九月二十五日、'発行紙数四十八万。朝日・毎日の発行紙数を上回っていた。「新聞で知らせて下されよ(『神諭』)」の命ずるままに'社長浅野和三郎以下、'立替え立直しの論陣をこれでもか'とばかり天下に訴え出したのだから当局があわてたのも無理はない.こうして大本は、みずから火中へ突き進んでいくのだが'大本事件史を書くのが目的ではないから'要点のみ紹介するにとどめよう。大正十年二月十二日、原敬内閣の手によって第一次大本弾圧が下る。不敬罪と新聞紙法違反である。天皇制国家の聖なる起源、”紀元節” の栄光を傷つけぬため、ことさらその翌日が選ばれたのであろう。大正日日新聞社に起臥して筆をとっていた王仁三郎は'当直の者に「ちょっと行ってくる。誰もこなくてよい」と言い残して静かに検挙されて行った。刑事は私服であり、王仁三郎の態度もおだやかだったので、ほとんど気づいた者はなかった。「…王仁三郎は'弾圧下の本部の状況を手にとるように見とおしていた。『王仁は神のお告げをきいたんや。二月十二日の朝'、藤沼が疾風迅雷の勢いで大検挙にのりこんでくると'王仁の周囲には多数の純情な青年たちがいるから、生命がけで抵抗するだろう。神聖な聖地をけがしてはならぬし、一人の犠牲者もだしてはいけない。官憲と争うてみても今更はじまらぬ。和の精神を本にしてなりゆきにまかしたのだ。検挙の日がわかっていたから、綾部を抜けだして大阪にきていたのだ』また『藤沼は純朴な一徹者だ。大臣にまではならないが、警視総監や知事くらいには出世するだろうよ。藤沼は王仁のためには恩人。大本を大掃除してくれたのやからな』と語ったという。(近藤保雄談)余談になるが'藤沼は茨城県・新潟県・東京府知事および警視総監を歴任して第二次大本弾圧直後の広田内閣で書記官をつとめたが'、ついに大臣にはなれなかった。」(大本教事件)大本が比較的平静であったのは、すでに『神霊界』に発表された神諭や王仁三郎の言葉の中に弾圧を暗示するものがあり、これも神の経綸の一段階と受けとめたからである。「この大本は世間から悪く言われて、後で良くなる神界の経輪であるぞよ」(明治三十三年旧一月七日) さらに具体的には「三年先になりたら余はど気をつけて下さらんと'ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛の酉の年は'、変性女子に取りては'後にも前にもないやうな変りた事ができてくるから'前に気をつけてお-ぞよ」(大正七年十二月二十二日)「辛の酉の紀元節 '四四十六の花の春 '世の立替え立直し '凡夫の耳も菊の年' 九月八日のこの仕組」(大正八年一月二十七日)辛の酉は大正十年にあたる。紀元節に王仁三郎の拘引状が発せられ、翌十二日に検挙。「四四十六の花の春」は大正十六年'すなわち昭和二年五月十七日に免訴、'事件が解消する。そして「凡夫の耳も菊(聞く)の年」で当局による事実無根の捏造まで交えた新聞各紙は、おもしろおかしく大々的に扱い'立替え立直しの予言は'万人の耳目をそばだたしめたこと。旧九月八日には王仁三郎に対し、「神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ」との神示が出て'大本の根本教典である『霊界物語』の口述が示唆される。同日未明'綾部本部に踏みこんだ判事警官ら二百五十名に対し、大本草わけの幹部四方平蔵らは平然と応対、こんな挨拶をする。「神さまもお待ちかねでござります。教祖さまも私どもに『警察から調べてもらわんと疑いがはれんので、神の仕組がおくれて世界の人民が永らく苦しむ』と前々から申されていました。取調べが十年おくれております」『大阪毎日』紙上に載った出口すみの談話も同じ調子で' 「これもみな神さまのお仕組でございます。かえって大本教の真相が世間に知れるのであろうと喜んでおりますので・・・・・・」『神霊界』は大正十年三月以降、「筆先の裏まで目を徹すようでないとなかなか判りはいたさんぞよ。世界の大峠がくるまでに'この大本に大峠があるぞよ。大本のことは神界の仕組であるから--」などという明治三十年頃の筆先を抜翠しそれとなく信者に注意を与えた。『大正日日新聞』も官憲の不当弾圧や社会の攻撃とたたかい'勇敢に信者の主張を代弁したが、刀折れ欠つき二年足らずで終幕を迎えた。王仁三郎と浅野和三郎が予告もな-責付出獄したのは'大正十年六月十七日午後であり'午後十時頃には百二十六日の獄中生活にもかかわらず、元気な姿で帰綾した。九月十六日に大本事件の第一審公判が京都地方裁判所で開廷され、二十七日に終了。十月五日に判決があり、王仁三郎に不敬・新聞紙法違反の最高刑である懲役五年、'浅野には不敬罪で十カ月、名義上の『神霊界』の発行・編集・印刷人であった吉田祐定は禁固三カ月の判決であった。開廷から判決まで二十五日、事実審理はわずか二日という権力側の一方的裁判を不服として大本側の即日控訴、検事側もまた浅野の量刑を不服として、公判でのたたかいは大阪控訴院に持ち越される。十月十八日(旧九月二十日)旧九月八日より神霊のきびしい督促を受けていた王仁三郎は'新教典『霊界物語』の口述にふみ切った。ほとんど布団に横臥したまま、一冊の参考書も置かずに語り出されたのを、筆録者谷口正治らが原稿用紙に書き止めていく。 一くぎりつく-と筆録者が読み上げ、あやまりがあればその場で王仁三郎に訂正される。口述の始まる前、三十分ぐらい王仁三郎はイビキをかいて休むときが多い。さめるやただちに語り始め、言い直しもよどみもなく'朝から夕方'さらに、夜に及ぶこともしばしばである。疲労すると口述は止まらぬのに、イビキまじりとなることもあり'物語の場面が寒帯地方なら寒がって夏にも炬燵を入れる。熱帯地方に移ると蒲団をはずして団扇を用う。登場人物が苦痛を受けると王仁三郎も苦しむという霊感状態のまま続けられる。ときには過去の霊的体験を頭の中で整理しながら'人間的意識のままに口述する場面もあった。一巻は百字づめ原稿用紙千二百枚。はじめのうちは筆録者の不慣れのためか一巻の口述に十日前後がついやされたが'、慣れるにしたがって速度が上がり、ほとんど三日で一巻がつくられていく。第四十六巻はわずか二日'、超人間業のスピードである。大正十年は十月末からで四巻、大正十一年は四十二巻、'大正十二年は七月までに十九巻。その後はぼつぼつ出されて、昭和九年までに八十一巻八十三冊の出版が終わった。全巻を通じて百字づめ原稿用紙十万枚という大長編物語である。『霊界物語』は既成の教典と異なり、読みやすい小説的形式である。内容は宇宙創造から主神の神格・神々の地位因縁と活動'・大本出現の由来・'神と人との関係・霊界の真相・世界観・人生観・哲学・宗教・政治・経済・思想・教育・芸術などあらゆる問題を含んでおり'、いたるところに密意がちりばめてあるため'大予言書ともいうべき特色がある。浅く-読めば実に浅く、深く-読みとれば底なしに深いのだ。王仁三郎は「五十六億七千万年をへて弥勒胎歳経を説くなり」とうたっている。浅野和三郎らを暴走せしめ'混迷におとしこんだ”明治五十五年立替え説” は'実は大本自身の立替えを指し、その完成の日と思わせた三月三日・五月五日については' 『霊界物語』第二十二巻の総説において絵解きをしている。「…非は理に克たず、理は法に克たず'、権は天に克たず、'天定まって人を制するてふ真諦を'神のまにまにニ十二巻まで口述しおはりました。神諭に日ふ。『三月三日、'五月五日は変性女子にとりて結構な日柄である云々』と。いよいよ大正十年九月八日に神命下り十日間の斎戒沐浴ををわって、'同十八日より口述をはじめ'、大正十一年壬戌の旧三月三日までに'五六七の神に因みたる五百六十七章を述べをへ、'つづいて五月五日までに'瑞月王仁に因みたる七百十二章(註・王仁三郎の誕生日は旧七月十二日)を惟神的に述べをはりたるも'また神界の経綸の毫も違算なきに驚欺する次第であります--」大正十年十月二十日(旧九月二十日)' 当局は本宮山上の神殿の破壊工事に着手した。すがすがしい神明造りの神殿はこの年七月二十七日、拝殿は八月に完成したばかり。ともに木の香もかおる英新しさなのである。建築費三十九万'、地均し・付帯設備もふく.め六十万円という巨額の出費は、信徒たちの神に捧げた真心の結晶であった。王仁三郎が申し渡された破壊の法律的根拠は明治五年の大蔵省通達「無頼の社寺を建立すべからず」という明治憲法発布二十年前に逆のぼる忘れられたカビくさい諭達であった。事件が起こった時点では、本宮山拝殿などまだ上棟式後二カ月を経たばかり、なぜ営々と築き上げるのを見ながら、仕上げを確かめてこわしたがるのか。「あめつちのしじまの中に虫の声、わがすすりなき川のせせらぎ」。前々日、'神殿取りこわしのため'大神さまの御昇神を秦上した斎主出口直日の歌である。破却開始とともに何鹿郡から総動員された「三千五百名の在郷軍人」(大阪朝日新聞)が本宮山下の小学校に集合し、行進ラッパで附近を練り歩いて威圧した。午前中は瑞垣を、'午後一時よりは手垢ひとつついていない神殿を破壊し始める。和知川河畔松雲閣で『霊界物語』口述開始より二日目に入っていた王仁三郎は、このラッパの音と'神殿破却の第一槌をどんな思いで聞いたのであろう。しかし神殿に鎮座された御神体は単に神籬(ひもろぎ)だけであった。すでにこのことを予期していたのか。『神霊界』大正十年一月号、つまり破壊の十カ月前にきっちりこの日この時が発表されている。王仁三郎執筆の「掃き寄せ集」の一文に切紙宣伝(半紙一枚を一定の方式に折り、ひとはさみで切り離すと九枚の紙片を得る。この紙片を組み合わせて文字を得、大本の権威を証明する方法)の紹介がなされ、さりげなくこう結ぶ。 「さて'、この二大勢力(註・官憲と大本か)が衝突するのはいつかと見ると、明らかに大正十年旧九月二十日午後一時と出る」金光教教祖川手文治郎はかねて「自分は新と旧と一致する十日に死にたい」と言っており、はたして明治十六年十月十日(旧九月十日)に昇天.。本官山神殿破壊は十月二十日(旧九月二十日)、'第一次大本事件が免訴となるのも昭和二年五月十七日(旧四月十七日)といずれも新旧が一致する。法廷ではすべては神命のままにと一貫した態度の王仁三郎であった。一方'上に立つ神'、大将、'伏字○○などを「天皇」と自白させるべくせまる訊問に、'浅野和三郎はひるまず答える。王侯・君主・その中には天皇も含まれるが'、正しき神への信仰に立つ自分は、国祖の神示に対して天皇に不敬となるとは思わないと。けれども実兄海軍中将浅野正恭々までを巻き込んで天皇への”不敬” の格印を押され、.知人・縁者から迫害される浅野の苦悩は計り知れぬものがあったろう。人類三分になる立替えはこず、'逆にわが身が立替えられようとは。浅野の内部から立替えの側面が抜け落ちると、あとは急速に冷めていった。.教団財政は危棟に瀕していた。切迫する立替えに心を奪われて経営面に手のゆき届かなかった大正日日新聞は'莫大な負債をかかえ込んでいる。加えて王仁三郎との意見のくいちがい…。彼に残るのは、鎮魂帰神によって得た、したたかな神霊世界への手応えであろう。これを学者らしく科学的見地から裏づけて'世界の心霊科学者と手を握っていこう。大正十二年四月七日心霊科学研究会を設立した浅野和三郎は、鳥取で『霊界物語』を口述中の王仁三郎夫妻の留守の間に、'家族ともにひっそりと綾部を引きあげる。東京に落ち着いたばかりの浅野一家を待っていたように関東大震災が襲うのだが'運命は皮肉である。昭和十二年に没するまで彼は生涯を神霊研究に捧げている。生長の家の主宰者・谷口正治(雅春)もまた立替え切迫を信じた一人であり'浅野の直系とし.て理論活動を展開していた。谷口.は書く。「天地は審判の火に焼かれている。戦争と飢饉と疫病とは地上に恐るべき勢をもって氾濫している。世界風邪はどうであ.ったか。食糧の欠乏はどうであったか。大火災の頻出はどうであったか。新聞紙は露都の食糧欠乏甚しく…人は人を共食し、人肉秘密にて販売せらると報じている。これでもいよいよの時でないといふのか」(大本信徒の主張収録) また、のちに回想して記す。「大本教祖の筆先と'仏説弥勒下生経と基督教の聖書とを相並べて最後の審判の日を研究していた私は' 周囲の神懸りたちの興奮した雰囲気と、'自分自身の研究とに巻込まれて'、矢り最後の審判正念場は大正十一年三月三日、五月五日と思えるのであった」(生命の実相六巻) やがて谷口もまた大本を去る。『聖書』にも造詣の深い浅野や谷口らが、「その日その時を知る者なし、'天の使たちも知らず子も知らず' 、ただ父のみ知り給ふ」(マタイ伝二四章三六節)という語や「このこと(天機に属すること)はなおにも知らさぬぞよ」との筆先の語句をもっと謙虚に含味して'立替え立直しは天機に属することであり、人の憶測の及ばぬことを知るべきであった。「天災がないというてのえらいご不足'、天災が早うありたらどうするつもりざ。世界はつぶれても'世界の人民がみななくなりても'我さえよけらよいという精神。改心いたすがおそくなりて'救かるものも総ぞこないになることになるぞよと申してあるが'、いろいろ焦るよりも'松心でおりて、この方の申すようにしておりて、仕組どおりの御用いたせば、世界へ早うわかりて、このなかもこれだけ苦しみいたさずに'ものごとが勇みてでけるぞよ」(明治三十八年旧三月九日))国家権力の弾圧は'踏まれても叩かれても立直する不屈の魂を選び抜き'去るべきは去らせて、大本を脱皮させる。新教典『霊界物語』の口述もそうであるが、'王仁三郎は大正十二年六月には国際補助語エスベラントを大本に採用'、十一月にはみずから『記憶便法エス和作歌辞輿』を即興的につくり上げるなど、その普及に大きな役割をはたす。 翌十三年二月十三日、責付出獄の身で王仁三郎はひそかに日本を脱出、蒙古に渡る。従う者'植芝盛平(合気道創始者)ら三名。「東亜の天地を精神的に統一し次に世界を統一する心算なり。事の成否は天の時なり。煩慮を要せず'。王仁三十年の夢今正に醍めんとす」(遺言『錦の土産』)満蒙独立を夢みる満州浪人や、慮占魁将軍のひきいる馬賊らが続々と王仁三郎の傘下に加わる。王仁三郎の発揮する霊力や奇跡的なできごとが伝わり声望が高まるにつれ'、蒙古平原に馬を進める一行はふく-れ上がっていく。軍閥とラマ教の搾取に苦しむ民衆の中には「大活仏の出現」として歓喜し迎える者は多かった。それは第二次奉直戦争に備えて兵力を必要とした張作霖を刺激し疑惑を招く。ついに張作霖は軍を動かし一行をパインタラへ追い込み、六月二一日、盧将軍はじめ、百三十七人の将兵を銃殺、'王仁三郎ら日本人六人を捕えて銃殺刑を宣告した。王仁三郎は「いざさらば 天津神国にかけのぼり 日の本のみか世界守らん」など三首の辞世を詠み'ついで他の五人の辞世も代作する。まさに機関銃の銃口が向けられた瞬間、日本領事館の「待った」がかかる。危うく死線をこえて' 一行は日本へ送還された。七月十三日、王仁三郎ら一行は門司に到着、そのまま大阪の未決監送りとなるのだが、民衆は三年前の不敬漢をがいせん将軍のように迎え'喝采を送った。ジャーナリズムも「このお話は探偵小説の興味をもって迎へられる極めて厳正なる事実の物語だ。日本人が大陸に理想的の新王国を建設しようとした大胆な試みであった。開闢以来初めての企てである。しかも徒手空拳をもってそれをやっつけようとした大胆さにいたっては、'壮挙を通り越して誇大狂だという非難もあるだらうが、とにかく支那政府の威力の徹底しない蒙古の大砂漠のうちに突如として新天地を開拓しようという、破天荒の陰謀、ロマンチックな'夢のやうな空想であった」(『太陽』大正十三年十二月号)とちゃかしながら、おおむね好感をもって報じた。    王仁三郎が保釈出所したのは七月二十六日である。当時の中国に道院という新宗教団体があり、'華北から満州及び中国全土にかけて多くの信者を有し〝扶乱(フーチ)″ による壇訓(だんくん)(神示)に従って活動していた。大正十二年九月一日に関東大震災が起こると'道院では壇訓の命のまま使者三人を東京に派遣、白米二千石と銀二万元をおくった。彼らにはもう一つの使命があった。「日本に行けば道院と合同すべき教団がある」と壇訓に出ていたため'、探し求めて十一月三日、綾部を訪れ王仁三郎と出会う以来、大本との深い提携が成立した。.第二次大本事件で獄中にある王仁三郎に降った壇訓の1つに、「数運は天運と相合す。尋仁(壇訓による王仁三郎の道院名)は化世の大責を負う、必ず数運と天道の輪転(りんてん)に循(したが)い、以て世間諸劫の障りを受く也」(昭和十三年二月十八日、於瀋陽道院)とある。「化世の大責」とか「世間諸劫の障りを受く」といえば'千座の置戸を負い給いしスサノオノ命がまず思い浮かぶが、確かに王仁三郎には'偶然の一敦と言いきれぬ不思議な暗号的数字がつきまとう。
千二百六十日の間 月汚す六百六十六匹のけもの
この歌は『霊界物語』第三十六巻第十四章の余白歌であるが'聖書に関心を持たれない人にはなんのことかわかるまい。『新約聖書』ヨハネ黙示録は巻頭に「これイエス・キリストの黙示なり」と示し、「この予言の言を読む者と'これを聴きてその中に録されたることを守る者は幸福なり。時近ければなり」とあるように'予言の書とされている。その第十一章を引用しよう。
「ここにわれ杖の如き間竿を与えられたり、かくてある者云ふ『立ちて神の聖所と香壇とそこに拝する者どもとを度(はか)れ' 聖所の外の庭は差措きて度るな。これは異邦人に委ねられたり。彼らは四十二カ月のあひだ聖なる都を蹂躙(ふみにじ)らん。我わが二人の証人に権を与へん。彼らは荒布を着て千二百六十日のあひだ予言すべし。彼らは地の主の御前に立てる二つのオリブの樹、'二つの灯台なり。もし彼らを害わんとする者あらば、火その口より出でての敵を焚きつくさん。もし彼らを害はんとする者あらは'必ずか-の如く殺さるべし』…」 さらに同書第十二章には「彼処に千二百六十日の間、かれが養はるる為に神の備え給へる所あり」 第十三章には「獣また大言と涜言(けがしごと)とを語る口を与へられ、四十二カ月のあひだ働く権威を与へらる。彼は口をひらきて神を涜し、'叉その御名とその幕屋すなはち天に住む者どもとを涜し、また聖徒にたたかいを挑みて'之に勝つことを許され…聖徒たちの忍耐と信仰とは滋にあり」とある。実は、”ヨハネ黙示録” のすべてが大本出現の予言と解釈するキ-スト者もいるのだが'確かに似ている。ここではそのうち'神が獣に四十二カ月のあいだ、聖地を蹂躙す藩権利が与えられたこと、「二人の証人」とは'出口なお・王仁三郎に該当するのではないかということを指摘するにとどめる。さらにユダヤでは一カ月を三十日と計算するため'四十二カ月とは千二百六十日にあたる。また”黙示録” と並んで予言の書とされる『旧約聖書』の中の〝ダニエル番″ 第七草「かれ至高者(いとたかきもの)に敵して言を出し、かつ至高者の聖徒を悩まさん。彼また時と法とを変んことを望まん、聖徒一時と二時と半時を経るまで彼の手に付(わた)されてあらん'。かくて後'、審判(さばき)はじまり彼はその権を奪われて終極まで滅び亡(うせ)ん」、また同書第十二章には「この奇跡(ふしぎ)は何の時にいたりて終るべきやと我聞くに、かの布の衣をきて河の水の上に立る人、-(著者註・瑞の御霊〜)天にむかひてその右の手と左の手を挙げ'永久に生ける者を指して誓ひて言へり。その間は一時と二時と半時なり」とあるo「 一時と二時と半時」は一二六。この数字にも深い意味がありそうだ。前出”余白歌” の「月汚す」の月とは、王仁三郎自身を指す。彼は瑞月と号し、しばしばおのれを月になぞらえる。「六百六十六匹のけもの」は' “黙示録” 第十三章の「獣の数字は人の数字にして'その数字は六百六十六なり」に求められる。王仁三郎は「六六六は三六さまに抵抗すること」と言っているが'、こうしてみると余白歌は明らかに”黙示録”の亨言を踏まえてのもの。それでは一二六の数字がいったいどう王仁三郎とかかわりあうのか。一 第一次大本事件で王仁三郎が大正十年二月十二日に獄に投ぜられ'、同年六月十七日に責付出獄するまでの獄中日数百二十六日間。(前記ダニエル書第七章、聖徒は一二六日彼の手<国家権力>に付された)二 王仁三郎が奉天から蒙古へ足を踏み入れた日が大正十三年三月三日。パインタラで遭難し奉天の日本総領事館に護送される七月六日まで、'すなわち王仁三郎が蒙古の地に足跡を刻した期間が百二十六日間。三 王仁三郎が奉天に到着した二月十五日(大正十三年は閏年)からパインタラ到着前日の六月十九日まで'、すなわち蒙古の地に救世主の再来と仰がれ奇跡をおこなった期間が百二十六日間。(ダニエル書第十二章。奇跡の数々は、王仁三郎の『入蒙記』参照。荒布は蒙古服か)四 大正十三年六月二十一日にパインタラの地でとらわれ、十一月一日に大阪刑務所を保釈出獄する前日までの船車中の日数百二十六日間。(七月二十一日に奉天から護送され二十七日に大阪刑務所に入れられるまでの船車中の日数七日間は獄中生活ではないため減ずる)五 第一回入獄の大正十年二月十二日より入幕を経て'門司へ帰着。第二回入獄の前日大正十三年七月二十六日までの日数千二百六十日。(ユダヤ式に一カ月三十日の計算で四十二カ月。前記ヨハネ黙示録、十一・十二・十三章参照)王仁三郎の入獄に関して' 一二六の数字が三年足らずの間で私の知り得たところ五回繰り返されている。まさに壇訓のいう「数運と天道の輪転に循(したがう)者」なのであろう。特に五の千二百六十日間というものは、世をあげて月(大本と王仁三郎)を汚し'四十二カ月のふみにじあいだ異邦人(弾圧者)に委ねられた聖なる都(神苑)は、蹂躙(ふみにじ)られっぱなしであった。官憲たちは土足をもって神殿を汚し、破却し、開祖の墓を二度まで暴いてはずかしめたのである。「獣また大言と涜言(けがしごと)とを語る口を与えられ、、四十二カ月の間--」とあるが、満天下の新聞・雑誌は連日何を語ったか。「三文の値打も無い大本教」「戦懐すべき大陰謀を企てた大本教」「竹槍十万本の陰謀団」「十人生き埋めの秘密あばかる」「伏魔殿の正体暴露」などと根も葉もない怪奇にみちた冒涜記事で恥ずかしげもなくうめたものである。それらの悪口が'なぜ四十二カ月で消えていくかは'、王仁三郎が蒙古より生還し門司に入った日から世間の見方が大きく変わったからだ。これも「悪くいわれてよくなる仕組」なのであろうか9ここで気になることは、黙示録第十一章の「もし彼ら(二人の予言者)を害わんとする者あらは、必ずかくの如く殺さるべし-・・・」の一句である。なぜならば、大本に第一次弾圧を加えた内閣の首班原敬は'本宮山神殿を毀し終わって八日目(大正十年十一月四日)、東京駅頭で珍しい艮の一字を名に持つ青年、中岡艮一のために刺殺された。.パインタラで慮とその兵らを殺し、'王仁三郎一行を機関銃の前に立たしめた張作霖は、四年後の昭和三年六月四日'、京奉線爆破事件で爆死をとげた。大本に第二次弾圧を加えた岡田内閣は、三カ月足らずで二・二六事件のために悲惨な最後を遂げた。また大本を二度にわたって徹底的に弾圧した大日本帝国は'やがて第二次世界大戦によって崩壊する。
救世主のあかしオリオン三星入蒙体験は'王仁三郎にアジアばかりか全世界の宗教協力の必要性を痛感させた。大正十四年五月、王仁三郎は世界宗教連盟を結成し総本部を北京'、東洋本部を亀岡天恩郷の大本本部におく。つづいて人類愛善の大義にもとづく、世界は一つの思想と国際的な思想混迷の打開をうたって『人類愛善新聞』を創刊。パリでは西村光月によって『国際大本』を発刊する。あい前後して支那・朝鮮・蒙古・ドイツ・チベット・インド・タタールなどから国際人の来訪が続いた。はじめて綾部に電灯がともったのもこの頃である。昭和二年五月十七日(旧四月十七日)、第1次大本事件は大赦令により原審が破棄され'免訴となる。三の数字の三つ並ぶ昭和三年(一九二八)三月三日、'大本では”みろく大祭” をおこなった。 「昭和三年こそ、この世初まって以来五十六億七千万年に相当する年である」と王仁三郎は宣言。釈尊が減してから五十六億七千万年にして弥靭菩薩が下生するという仏典の謎に因縁ある数で、大本では五六七と書いて「みろく」と呼ぶ。「三月三日の桃の節句は変性女子(王仁三郎)にとっての因縁の日」とたびたび筆先にも現われたが' 王仁三郎の生誕は明治四年旧七月十二日、昭和三年三月三日は旧の二月十二日であり、はからずも王仁三郎が五十六歳七カ月を完了する日となる。尋仁(王仁三郎) は必ず数運と天道の輪転に循い、の壇訓の言葉がここでも生きてくる。だからといって'御簾の内にありがたく鎮座まします王仁三郎ではない。みずから宣教の陣頭に立ち'、南は台湾・沖縄から北は千島・樺太・北海道と日本全国くまなく一巡、さらに二代教主すみをともなって朝鮮・満州へ。”人類愛書″・”万教同根”の旗じるしのもと、教練は世界各地へとのび、人類愛善会もパリ・奉天・京城・サンパウロ・バンコク・メキシコに設置、その分所支部数も五六七カ所の吉数となる。亀岡本部・-天恩郷には山陰随一を誇る印刷所を持ち、新開・雑誌・単行本・パンフレット類をつぎつぎと発行、'文書宣教の威力を発揮する。昭和六年(一九三一)元旦、 王仁三郎は無気味な言葉をはく。「今年は西歴一九三一年でイクサノハジメ、皇紀二五九一年だからジゴクノハジメじゃ」(既出、歌に託した神の言葉の項の後部参照)この年九月八日'、本官山山頂の神殿の破壊跡に石碑が三つ建てられた。中央の神声碑には 「三ぜんせかいいちどにひら九うめのはな-・・・」の筆先が、右側の碑には大本教旨、左側の碑には「盛なりしみやゐ(官居)のあとのつる山にやまほととぎす昼よるを啼く」'「よしやみは 蒙古のあらのに朽るとも やまと男子の品は落さじ」の王仁三郎の和歌二首がきざまれた。「つる山」とは「桶伏山」とともに本宮山の別称であるが、'前の歌は四年後の第二次大本事件におけるすさまじい神殿破壊を暗示する如き不吉な歌である。後の歌は'王仁三郎がパインタラで死線に直面したときの辞世の歌で、やはりおめでたいとはいえない。この建立式のとき'王仁三郎は、「これから十日後に大きな事件が起き'世界的に発展する」と語ったが、'そのとおり十日後の九月十八日に満州事変が勃発、日本が中国大陸を侵略する最初の契機となる。碑石建立一カ月後の十月十八日、王仁三郎は「九月八日は大本にとって不思議な日であります。本宮山は一名桶伏山といって、大本教旨を書いた大きな天然石を彫刻したなりで時期が来るまで伏せておいて、蒙古入りをした。帰ってきてもまだ起こす時期が来なかったのであるが'、その石を本年九月に入って、神さまからはじめて早く建ててくれいといわれて建てた。気がついて見ると'新の九月八日に建てあげていた。それから十日後の九月十八日には満州問題が起こるとあらかじめ言っておいたが、その通りに起こりました」と語った。昭和九年三月'、『人類愛善新聞』は念願の百万部を達成した。同年七月、王仁三郎は昭和神聖会を結成し東京九段の軍人会館で発会式をあげた。統管に出口王仁三郎、'副統管に内田良平と私の父・出口伊佐男が就任。.「神聖皇道を宣布発揚して人類愛善の実践を期す」.ことを綱領の一つにかかげ、.国内の革新を目ざす国民精神運動団体であると規定した。これが大衆の共感を呼び'創立一年後には地方本部二十五、支部四百十四。開催された講演会だけでも二千八百八十九回、入場者計百万人に及んだ。その膨大なエネルギーは王仁三郎の当初の意図をはずれて、しだいに右翼化、'倒閣・現状打破へと傾いていく。ひそかに内偵を進める当局は、水ももらさぬ布陣をしいて息づまる激突の時を待っていた。地上の人類はそれぞれ天の星を負って生まれてくる。しかし多くは暗星で光を放っていないから見えない。大臣でも三等星か四等星、歴史上の人物では豊臣秀舌や西郷隆盛が一等星であった。王仁三郎自身の星はといえば、天の囚獄オリオン星座で'瑞(三つ)の御霊が千座の置戸を負って立つ姿だとみずからは言う。天に描かれた巨大な囚の字形に四隅を封じこめられた形の三つ星、王仁三郎の背にはまざまざとその印が大きな黒子となって刻されているのだ。オリオンは、ギリシア神話に出てくるゼウスの弟で、大海原を治めるポセイドンの子。'海上を自由に歩ける狩の好きな美しい巨人であった.太陽神アポロンの妹・月の女神アルテミスに愛されたが、アルテミスは兄神アポロンにあざむかれ、海中を歩くオリオンを殺してしまう。気がついたアルテミスは'嘆きつつ、その死体を天の星の中にとじこめてしまった…。オリオンが海を治める神の子で、太陽神と争.って星に囚われるなど、やはり.スサノオ命の宿業を暗示していよう。黒子(ほくろ)といえば蒙古では、王仁三郎が支那服を誹えたとき慮占魁は支部で高名な観相学者をそっと呼び入れて救世主としての資格のしるしを調べさせたという。結果は背の黒子も含めて、三十三相を具備した天来の救世主とのことに驚喜して'、盧をはじめ' 蒙古王貝勒'(ばいろく) 将校・馬賊の頭目たちが敬慕したようだ。当時は天下筋(手のひらの縦筋が中指の先まで通ったもの。天下を取る相という) が八本であったのが<間もなく十本(五天紋)になっている。みずから囚われの身となるべき運命を知りつつ' それに向かって歩みつづけねばならぬ予言者は悲しい。昭和十年二月七日、郷里の亀岡市穴太の瑞泉郷において' 神聖神社の鎮座祭が大吹雪の中で挙行された。王仁三郎は参拝者に向かって'、「この大吹雪は神聖運動にたずさわるものにつき' 一つの暗示と警告である」と告げて重大な覚悟をうながしている。 三月に台湾における昭和神聖会の発会式に臨んだ王仁三郎は,その後,各地からの要望にもかかわらず'亀岡を動かない。九月下旬、何を思ったのか王仁三郎は幹部・職員に対し,長髪の者は長髪を,、髭をのばしている者は髭をそり落とせと命じた。驚きながらも一同は即座に服したらしい。高木鉄男は日記にしるしている。「剃髯列席の男子十四人,すでに髯あるもの1人もなし」十月六日には神島二十年記念参拝があったが、'王仁三郎は「神島参拝は今年で最後かもしれない」ともらした。十月中頃、王仁三郎の厳令として, 亀岡在住信者は一世帯必ず一人以上,大祥殿(礼拝所)の朝夕の礼拝に出るようにと伝達され, 王仁三郎みずから祭主となって先達をつとめた。異例のことであった。十月三十一日、大本秋の大祭に,第一回の歌祭りが盛大におこなわれた。この歌祭りは,王仁三郎の四十年来の夢であった。明治二十七年(一八九四),、王仁三郎数え二十三歳の年, 園部で国学者岡田惟平(これひら)に歌祭りの意義について教えられた。スサノオノ命がヤマタノ大蛇を退治してクシナダ姫を得、,出雲の須賀に宮を作ったときにうたった。「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」が、和歌の始まりといわれる。一般的解釈は字句どおり雲のわき立つ出雲の地に官をたて、妻を得た感動を歌ったものとされるが、岡田惟平はさらに特別の密意を読みとっていた。出雲はいずくも、八重垣は行く手をはばむ多くの垣'、妻は秀妻'すなわち日本の国、だからこの歌はスサノオノ命の嘆きと決意を示したものとなる。「イザナギノ命から統治をゆだねられたこの大海原'地上世界には、八雲がたちふさがっている。どの国にもわき立つ雲や垣根が日の神の光をさえぎるばかりで、この世は曇りきっている。秀妻の国の賊(ヤマタノ大蛇)は退治したものの'さらにこの国を八重にとじこめてくるさまざまな心の垣'、その八重垣をこそ私はとり払わねばならぬ」.スサノオノ命の心情を慰め、'雄々しくふるい立たせようとして、クシナダ姫は伏せた桶の上に弓を結びつけ、その弓弦(づる)を両手に持つ梅の小枝で打ちひびかせた。それが古代楽器弓太鼓のいわれとされる。そのむかし村々では、年にいっぺん'歌祭りがおこなわれていた。スサノオノ命のこの神歌を書きうつした短冊を霊降木(ひもろぎ)とし献歌をしたためた八枚の色紙で囲む。さらに献歌の色紙が八重にとりまき、そのまわりをつぎつぎ歌でうずめる。平素からの村びと間のもめごとや'怨み妬みもいざこざもすべで歌に宣り上げ、その歌の色紙で型どった八重垣を読み上げながら一枚一枚とり除いていていく。立ちのぼる心の雲、いっさいの罪けがれを水に流し、許しあい'村びとの心を和して'神意をなごめる。村びとたちの歌の中には素朴な相聞歌が多かった。男から想う女に歌いかけ、'女から返歌があればいっさいはそれで決まって'生涯の伴侶となる。歌のことばは言霊であり、真言であってうそは許されない。この言霊をもって四方の八重垣をうち払い、'喜びもまたうたい上げる、平和なゆかしい祭りであった。この歌祭りは'源頼朝が鎌倉に幕府をひらいて武家の世となってからは絶えてしまう。藤原定家が小倉山の二尊院で歌祭りをしたのが'おそらく最後であろう。今はわずかに宮中に歌会として名残りをとどめている。若き日の王仁三郎は、師に誓った。自分の手で必ず歌祭りを復興させ'スサノオノ命の志を継ぎますと。六十四歳になったそのとき、王仁三郎は許されたわずかの時を燃焼しきって'岡田惟平との誓いを果たそうとする。かがり火に映える神苑の舞台上、冴えわたる弓太鼓と八雲琴の音色、年若い舞姫たちの奉納する須賀の舞'、清しく宣り上げる歌垣のかずかずの献詠歌と、さながら幽玄な神代をこの地に顕現した。亡き師惟平翁の子息岡田和厚をこの日'特別に招待している。翌十一月十一日、石川県の大本北陸別院で、秋の大祭と第二回の歌祭りが'王仁三郎を迎えておこなわれた。献詠歌の選には王仁三郎があたったが'このとき天位を受賞したのはのちに北国新聞社社長となる故嵯峨保二である。賞として嵯峨に与えた色紙はスサノオノ命の神歌であったが、王仁三郎はその末にこう書き加えるのであった。八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣をいつかはらさむ万代を経て弾圧の時は刻々と迫る。いま再び八重垣の内深く閉じ込められようとしているのは'まさにスサノオノ命の機関と自覚する王仁三郎であった。「…王仁三郎は『霊界物語』の何巻とか『月鏡』のどこそかと指摘して、'心ある者に読ませたり(事件の予言が出ている)'、当局のスパイ潜入を知らせるのに犬を抱いて写真にうつったり、'芸の細かいところも見せている。当時'大沢晴豊との問には'つぎのような問答がかわされた。『聖師さま(王仁三郎のこと)'また大本事件がおこりますか』'『どうしてもあるなあ』、『そのときは私もはいらねばなりませんか』、・「そうだなあ'百日入ったらよい』後日談だが'大沢は翌十一年に佐世保市で捕われ'、ちょうど百日目に出所した。」(『巨人出口王仁三郎』より)十二月四日の真夜中、'王仁三郎がひそかに亀岡・天恩郷のオリオン星座にちなむ月宮殿に入り'、ご神体を他の石と取りかえるのを側近内崎照代が目撃している。これは厳秘とされ、他へはもらされなかった。翌五日'何事もなかったように王仁三郎は島根に立つ。島根別院では第三回目の歌祭りが予定されていた。
第二次大本事件一年有余にわたる当局の極秘の布石を終えて、'昭和十年十二月八日未明、ついに強権発動.綾部・亀岡の両本部はじめ全国各地の大本諸機関に日本宗教史上未曽有の大検挙の嵐は吹きすさぶ。前夜午前零時、'京都御所ほか二十数カ所に集結した綾部大隊五個中隊と、亀岡大隊六個中隊は、窓のホロを探く-閉ざし灯を消した大型市バス十八台と乗用車四台に分乗、午前一時には綾部大隊が先発'、三時には亀岡大隊が'完全に遮断された京都- 綾部間八十キロの山陰街道をひた売る。非常召集された彼らがはじめて目的地を知り、「大本討入り」を明かされたのは老の坂峠に達した時点であった。必死の覚悟を申し渡された彼らは、白布を腕に巻き、白たすきを斜めにかけ、'鉄かぶとをあごにむすんで'軍靴をぞうりにはきかえる。足音を消すためであった。月明に浮き上がる明智光秀の城あと'、亀岡天恩郷の大本本部百数十棟の殿堂に忍び寄る決死の武装警官大隊によって'ひたひたとおし包まれていった。交錯する探照灯、切断される電話線。午前四時三十分、'指令一下「火事ダ」「電報、電報… 」 それが合い言葉の異様な連中.、そのとき私は光照殿の一室で、母や弟と安らかに眠りについていた。枕元に乱入した土足の警官たちを見て'逃げる泥棒でも追っているのか母は他人事に思ったらしい.警官たちは五歳の私と三歳の弟から荒々しく母をもぎとり、亀岡署の冷たい雑居房に投げこんだ。隣室からは伯父出口元男が令状も示されず拘引される。亀岡では二百三十名の警官隊によって役員信者百五十人が検束、百十人が留置された。綾部の梅松苑では三百人の警官隊によって役員信者百五十人が検束、六十七人が留置された。伯母出口直日(後、三代教主)は三人の幼子とともに信者宅に軟禁の身となる。検束をまぬがれた信者にはただちに帰郷を強制'、光照殿はじめ建物のすべては釘づけ封鎖する。昨日まではのどかで'すがすがしかった大本神苑内には、ものものしい検事や警官の群ればかりが立ちふさがっている。その異様な空気だけは幼い私の心底も焼きついて今なおはっきり残っている。東京では約八十名の警官隊が昭和神聖会本部など六カ所を捜零、大本幹部八名が検挙されるが、関係者一同はいづれも落着き払った.もので、'出口字知暦(父・伊佐男)の如きは終始微笑を浮かべながら何事もなかったような態度で護送されて行った」とその日の大阪朝日新聞は報道している。大本の首魁・出口王仁三郎は松江市の島根別院に滞在していた。前日の七日夕、綾部から到着した妻すみと大国以都雄とともに、赤山の対岳亭でくつろぎ、夕陽の映える大山の雄姿を望みつつ亭内の名残りの紅葉をたのしんだ。そのおり、王仁三郎が「”裏を見せ表を見せて散る紅葉”、 誰の句だったかなあ」と語るのを大国が聞いている。またふもとの警察部長官舎のあたりを見下ろしつつ'、誰にともなく 「明日は大雨だな」と咳いた。その夜、王仁三郎夫妻は赤山山上の三六亭に宿泊する.松江には二百八十人の武装警官隊が急襲したが'、柔剣道二段以上の猛者十五人が水盃をかわし「大本では剣・銃・爆弾などの装備も相当充実している模様である。如何なる事態に発展するか知らぬが、'諸君の生命は只今頂戴する」との悲壮なる訓示を受け'先陣の決死隊をつとめる。王仁三郎は衣服をあらため、すみが火をつけてさし出した煙草をうまそぅにすったのち、「急に用事ができて京都に帰ったと信者に伝えてくれ」(大阪毎日新聞記事)と、すみに言い残し松江署へ連行される。「梅で開いて松で治める」との筆先の言葉に義理立てしたか、第一次は梅田署、第二次は松江署が'王仁三郎逮捕の御用に使われた。この日'強制捜索を受けた場所は、全国で百九カ所に達し、大本幹部・有力信者四十四名が翌九日までに各地から京都市内の八警察署に護送留置された。全国の地でどこひとつ抵抗どころか混乱すらもなかったのに、何をまた夢見たのかこのドはずれた大捕物陣。「子子子' 子子子」も読みようで変わる。「猫の子'子猫」か「獅子の子、子獅子」。信者の末端にま