明治二十六年(一八九三)癸巴(みずのとみ)この年出口直、日清戦争などを予言。次の文は当時の信者・四方すみの回顧談。「…明治二十六年の事ですが 大本開祖「来年になると支那という国と日本は戦争をせねばならん」と仰有る。すみ「支那って何処ですかいな」開祖「何処かわしも知らんが神様が日本は支那と戦争すると仰有る、そして戦は日本の勝ぢゃと神様が仰有る』すみ「へえ、来年も戦争するのですか、一体その支那ってどんな国ですか」開祖「さあわしも知らんが、ともかく外国ださうや、何でも日本よりはどえらい大きな国ぢゃと神様が仰有るが、わしにもサッパリわからぬ』開祖様も支那がどんな固で、何処にあるのかサッパリ御存じでない、「信濃の固というのもありますさかい、その辺だすやろ』という様な事に二人の話はなって了ったさうですが:・。その時にまたこんな事を仰有った、「福知山に営所(兵営の事)が出来ますそうです。そして舞鶴に鎮台が出来て、あの海には軍艦が浮ぶ様になるさうです、福知、舞鶴、外国十里四方は宮の中、綾部末で都と致すぞよ…と神様が仰有る」すみさんはすっかり面食らってしまって、何がなんだか薩張りわからぬ。大体支那と戦争するとか、福知山に営所が出来るとか、舞鶴に鎮台が出来て、あの海に軍艦が浮かぶ様になるとか サッパリ訳の判らぬ事ばかりであります。 その当時、そんな話はないどころか、その気も無かったから、判る道理がない、おすみさんが吃驚したのも無理はないと思います。それから又「おすみさん、本宮山に天の御三体の大神様のお宮が建つそうです、神様がさう言っていられます」「ええ一体何時建つんですか」『もう直です』寒い最中にも一重物を着て倉の板の間にいる人がこんな事を云うのです。おすみさんやさかい聞いているのですが、他の者なら一笑に附して顧みてもくれなかったでしょう。ところが二十七年に支那と戦争が始まって二十八年に日本が勝って了うた。福知山には連隊がおかれ営所が出来たし、舞鶴は軍港になり軍艦が出入りする様になった。本宮山にも今はその礎石丈が残っているが、お宮が建った。何も彼もお言葉通りにちゃんとなって来た。おすみさんはこのお話を聞かして貰うて、その通りになったのを見て愈々本格的に入信されました」(「開祖さまの足のあと」「神の国」昭和十年一月号) 「…八木に居りた頃、明治二十六年の五月頃に、来春四月から唐(清)と日本との戦争が在ると御神示(おんさしず)ありて、コンナ時節に戦争(いくさ)と言ふ様な事は無いと、皆が申して居りたなれど、違い無く戦争(いくさ)、明治二十七八年は大戦争、明治二十九年の大洪水も、神様から聞いて居りましたから、福知山の青木さんに、今年は大暴風雨(おはあらし)が在りますげなと、明治二十九年春申して置いたが、えらい大荒れが在りました。:::」(出口直の日清戦争や福知山大洪水の予言。

「神霊界神諭」明治三十六年閏五月二十三日、「神霊界」大正八年七月一日号)「明治二十六年に出口直に露国から始まりて大戦(いくさ)が在ると申して在らうがな…日本に手柄を致さして世界をおさめさせる・・・」(出口直の日露戦争予言。「神霊界神諭」明治三十二年正月、「神霊界」大正八年六月十五日号)

明治二十七年(一八九四)甲午(きのえうま)八月一日日清戦争はじまる(~二十八年四月)出口直、七月に「激烈な御筆先」を出す。この筆先自体は残っていないが、後で何度か言及されている。「明治二十五年から口と手とで知らしてある実地の事件(こと)が、世界の片端から浜辺から始めるぞよ。…遠国(えんごく)から始めて段々外国は甚い事があるぞよ。明治二十七年の七月に、激烈(ひど)い御筆先が書かしてあるが、外国の罪稼(めぐり)の甚い所には惨烈(ひど)い事があるぞよ。今度二度目の世の立替は、国の借銭、所々の身魂の借銭済(しゃくせんなし)であるから、身魂が悪いと働きをして居る国土(くに)からは借銭済しを始めるぞよ。遠地近地(とおくちかく)の区画(へだて)は無い、罪繊(めぐり)の多大(ひど)い所には惨烈(ひど)い事あるから、遠地(とおく)から始まりて段々近所へ在り出すから、近所(ちかく)は無いと油断(きゆるし)は些とも成らんぞよ。国々、所々、家々に身魂の借銭の在る丈の事は、何ンでなりと借銭を皆済(すま)して了はねば、世の元の荒神の御揃になりて御守護あり出すと、中々世界の混雑と成るから、大峠と成る迄に改心を致して、身魂を磨いて居らんと、大峠越すのが辛いぞよ」(「神霊界神諭」大正四年旧五月四日、『神霊界』大正七年一〇月一日号) 明治二十八年(一八九五)乙未(きのとひつじ)十一月 出口直、日露戦争・世界大戦の予言「…魯国(ろこく)から始まりて、世界の大戦(おおいくさ)に成ると云ふ事が、明治二十八年の十一月に、出口の手で書かして在るが、時節が追々と出て来て、疑ひの雲が晴れ行くやうに成りたぞよ。永い間の大きな経綸であるから、申した事に遅し速しは在る事も在るなれど、一度申した事は何も違はん、其の通りが出て来るのじゃぞよ」(「神霊界神諭」明治三十六年間五月二十三日、『神霊界」大正八年七月一日号) 

明治二十八年(一八九五)乙未(きのとひつじ)十一月 出口直、日露戦争・世界大戦の予言「…魯国(ろこく)から始まりて、世界の大戦(おおいくさ)に成ると云ふ事が、明治二十八年の十一月に、出口の手で書かして在るが、時節が追々と出て来て、疑ひの雲が晴れ行くやうに成りたぞよ。永い間の大きな経綸であるから、申した事に遅し速しは在る事も在るなれど、一度申した事は何も違はん、其の通りが出て来るのじゃぞよ」(「神霊界神諭」明治三十六年間五月二十三日、『神霊界」大正八年七月一日号)

明治三十四年(一九O一)辛丑(かのとうし)四月十八日 王仁三郎、静岡の長沢雄楯のところで日露戦争の詳細な予言。「明治三十四年四月頃だったと思います。日露戦争のおこる機運が濃厚となり、必ず早晩あるというところから、これを神がかりで決する必要がおこりました。それで出口さん(王仁三郎)が四方平蔵氏他一人と三人で私の宅に来られ、日露戦争が開戦になる時期について神示を乞うことになりました。出口さんが神主になり、私が審神者で神さの御降臨を願った。その時おかかりになった神さまのおおせに『この年の八日にはおこるか? それが延びたら明治三十七年の二月になる.三十六年の七月頃からだんだん開戦の機運が濃くなり、いよいよ翌年二月に始まる。戦いは連戦連勝であるが、いかんなことには軍艦七隻が沈没を免れない。それから平和克服は八年の九月になる』とのことでした。そこで私は『しからば日本の戦勝の結果として得る利益はどれくらいか」とおうかがいしますと、「支那の海岸のごく一部と朝鮮全部、樺太南部を日本が受ける』というお告げでした。約二時間にわたって種々お伺いしましたから、露国作戦計画から外交談判にいたるまで、詳細にお語り下さいました。その時におかかりのご神霊は、岩清水八幡宮にお仕え申すご神霊がおいでになさったのであります。いまだかつて神がかりで、こんな大戦争を数年前に予言し的確に中ったということはないのであります。…」(「出口師の大預言:数年前すでに日露戦争を詳細に…」長沢雄楯「神の国」昭和十年五月号) 

明治三十四年(一九O一)辛丑(かのとうし)四月十八日 王仁三郎、静岡の長沢雄楯のところで日露戦争の詳細な予言。「明治三十四年四月頃だったと思います。日露戦争のおこる機運が濃厚となり、必ず早晩あるというところから、これを神がかりで決する必要がおこりました。それで出口さん(王仁三郎)が四方平蔵氏他一人と三人で私の宅に来られ、日露戦争が開戦になる時期について神示を乞うことになりました。出口さんが神主になり、私が審神者で神さの御降臨を願った。その時おかかりになった神さまのおおせに『この年の八日にはおこるか? それが延びたら明治三十七年の二月になる.三十六年の七月頃からだんだん開戦の機運が濃くなり、いよいよ翌年二月に始まる。戦いは連戦連勝であるが、いかんなことには軍艦七隻が沈没を免れない。それから平和克服は八年の九月になる』とのことでした。そこで私は『しからば日本の戦勝の結果として得る利益はどれくらいか」とおうかがいしますと、「支那の海岸のごく一部と朝鮮全部、樺太南部を日本が受ける』というお告げでした。約二時間にわたって種々お伺いしましたから、露国作戦計画から外交談判にいたるまで、詳細にお語り下さいました。その時におかかりのご神霊は、岩清水八幡宮にお仕え申すご神霊がおいでになさったのであります。いまだかつて神がかりで、こんな大戦争を数年前に予言し的確に中ったということはないのであります。…」(「出口師の大預言:数年前すでに日露戦争を詳細に…」長沢雄楯「神の国」昭和十年五月号)

明治三十六年(一九O三)癸卯(みずのとう)九月十日 王仁三郎「いろは歌(その二)」(『瑞の神歌」に収録)を書き、日露、第一次、第二次の大戦などを預言。科学技術文明の発展も預言。「神霊界」大正六年十一月号掲載。本誌八十五頁以降に全文紹介。「ろこく斗りか亜米利加迄が、末に日本を奪る企画。金と便利に任せつ、。:・にしに亜米利加、北には露西亜、前と後に敵ひかへ、四方海なる日本国。…よ言どころか確言ばかり、一分一厘違やせぬ。誠の心で聞くなれば、ヒヤリヒヤリと汗が出る。…むかしの神の仕組まれし、最も便利な世が参り、蒸気、電気の働きで、三千世界を近よせる、交通機関も完備して、千里万里も夢の聞に。…」などなど。 十月二日 この日に王仁三郎が執筆した「たまのいしずゑ」に「予言が的中したりとて、病が全快したりとて、必ず、奇跡をもって神となすなかれ。…」などの文章がある。(『出口王仁三郎著作集』一巻)。 この頃を回顧した王仁三郎の回顧歌集(昭和八~十年『百千鳥』)には、「今に見よ三千世界が返るぞと朝から晩まで寝言言ひをり」「そのころの綾部の大本は狂人の集会なればせんすべもなし」など、日露戦争直前に「立替えちかし」と狂い立つ役員の様子が描かれている。出口直の筆先も、明治三十六年が一番多い。「…露国の仕組は極悪の守護神が太古(むかし)から仕組をして居りての今度の大戦争(おおたたかい)。今後の戦争始まりたら日本の人民、ここまでの心で居りたら、無造作(いちころ)に敗けるぞよ」(「神霊界神諭」明治三十六年十二月二十八日。『神霊界」大正十年二月一日号)

明治三十七年(一九〇四)甲辰 (きのえたつ) ニ月十日 日本、ロシアに対して宣戦布告。「明治三十七八年ごろは日露戦争の勃発で、四方平蔵、中村竹造ら十二人のいわゆる幹部役員はいよいよ世の立替で、五六七(みろく)の世になる、それまでに変性女子(注・・王仁三郎)を改心をさしておかねばお仕組が遅れると(『霊界物語』第三八巻第二十二章)と、終末、大峠を待望する立替信仰で、王仁三郎の活動を妨害。王仁三郎は中村に、「日露戦争が起こっても、それくらいで世界の立替ができるものでない。まだまだ世界の大戦争があり、それから民族問題が起こり、いろいろ雑多な事が世界に勃発して最後にならねば立替は出て来るものじゃない。ここ十年二十年で、そう着々とらちがあくものか。今の内にチツと目をさましておかぬと、この戦争は済んでしまふなり、立替は出て来ぬなりすると、まだ嘘言(うそ)ぢゃったといって信者が一人も寄りつかなくなってしまう。…」(同右)など注意する。七月十二日 この日の筆先は、当時の十二名の役員達への警告とともに、大正十年立替説の根拠にもつかわれた、問題の筆先。「…今の大本の役員信者は、今度の戦争(たたかい)で世が根本から立替るやうに信じて、周章(あわて)てゐるなれど、世界中の修斎(たてなおし)であるから、さう着々とは行かんぞよ。今度の戦争は門口であるから、其覚悟で居らんと、後で小言を申したり、神に不足を申して、折角の神徳を取外す事が出来いたすぞよ。…今度の戦争で何も彼も埒が付いて、二三年の後には天下泰平に世が治まる様に申して、エライ力味やうであるが、そんな心易い事でこの世の立替は出来いたさんぞよ。今の大本の中に唯の一人でも、神世に成りた折に間に合うものがあるか。誤解するも自惚れにも程があるぞよ。まだまだ世界は是から段々と迫り来て、一寸の動きも取れんやうな事が出来するのであるから、其覚悟で居らんと、後でアフンとする事が今から見透いて居るぞよ

明治三十八年(一九O五)乙巳(きのとみ)五月二十七日 日本海海戦。ロシアのバルチック艦隊を破る。この二週間前の五月十四日、出口直は舞鶴沖の沓島に龍もり、二十五日に舞鶴に戻る。一連の預言的な神事であったが、出口和明「予言・確言」(昭和五三年)で要約する。「「(明治) 三十三年六月八日に冠島参拝、七月八日に沓島開きに参りて、三十四年の(旧)四月十日に産水を投じに沓島にまいりた」(明治三十八年旧四月)右の筆先に示すように、四年前の旧四月十日、新の五月二十七日、なおは沓島の釣り鐘岩の上に立ち、元伊勢の神水を激浪逆巻く日本海海上に投じて叫んでいた。「この水、三年で世界へ回るぞよ。世界が動きだすぞよ」これも一つの型ではないか。…数えるまでもなく三年目に日露戦争がおこった。日本海に神水を投じてから四年目の旧暦四月十日同日から沓島ごもりが始まり、新暦同日(五月二十七日)、まさに四年後のこの日、日本海上での日露の決戦がおこなわれる。皇国の興廃この一戦にあり、日本艦隊の圧勝は、たしかに日本を露国から守ったのである」