ねらう要所は対馬に津軽、馬関海峡その次に、舞鶴軍港岸和田の 間の軍備に目をつけて、地勢要害取り調べ、またも越前敦賀より尾張の半田に至るまで、国探(いぬ)を放ちて探索し、-挙に御国へ攻め寄せて、すべての活動中断し、日本を占領する企み、夢でも見てるか夷国人、日本神国の敷島の、神の身霊を知らないか、鰐のやうなる口開けて、只一呑みと思ふても、日本男子の魂は、胸につまりて呑めないぞ、行きも戻りもならないぞ、

 綾部の錦の大本の、十里四方は宮の内、見事覚えが在るならば、沓島の沖まで来て見よれ、鋼鉄艦も潜艇も、丹後の海の埋め草に、一隻残さず揺り沈め、日本兵士の忠勇と、出口の守の御威徳で、艮大神現はれて、三千世界を立直す、首途の血祭り覚悟せよ。らん暴極まる畜生(けもの)国、慾に眼光(まなこ)を曇らせて、我神国を屠(ほふ)らんと、日頃巧みし軍略は、旅順、大連、韓国に、計画外づれて馬鹿を見む。

 石炭兵糧軍資まで、用意しておけ旅順港に、 今に日本が貰ってやる。その返礼に日本刀、一度は切味見せてやる、覚悟召されよスラブども。

 

 明治三十七年二月十日、日露戦争が始まると、大本の中はわき立った。大本には町より早く春がきた。役員信者たちの顔は三千世界の梅の花が一度にひらいたほどの晴れようだ。世間の噺笑をあび、気狂いと呼ばれながら十年余りものあいだ叫び続けた予言がついに実現したのである。

「気(け)もないうちから知らせてあるぞよ」と筆先がくり返すとおりではないか。日露戦争からひき続き世界の大戦いへと移っていよいよ立替えがくる。さあ、いざという時に至れば艮の金神が現われて大神力をふるい世界をひっくり返すのだ。

 快哉を叫んではね廻る彼らを制しきれぬまま、王仁三郎の心は沈んでいた。日露戦争は来るべくして来た。避け得ぬ歴史的宿命と観じつつも、単純に喜ぶ気になどなれなかった。王仁三郎の戦争観はすでに前年(明治三十六年)の七月十九日から書きためていた『筆のしづく』の一節に吐露してあるとおりである。…

 艮の金神さまのお構いなさる松の世(立替え後に実現される理想世界。清浄でめでたい不変の世、松は待つの世の願望にもつながる)のやり方は兵士もいらぬ、戦争もなきよう天下太平におさまるようになさることでござる。軍備や戦争は地主や資本家を守るためのカにするので、世界少数の地主と資本家のために税をしぼりとられ、そのうえ兵にもとられて、大事の命を投げ出さねはならぬ。高みへ土持ちでこんなつまらぬことはないからこの世の立替えがあるのでござる。

 今や世界の国々は軍備のために実に二百五十億弗の国債をおこして、その利息だけでも毎月三百万人以上の者を働かさねはならぬようになり、そればかりか幾百万の達者盛りの若者は絶えず兵に出て人殺しの業を習って、いらぬ無益の難難苦労を嘗めねはならず、どこの国も達者な者は皆選り抜いて兵に徴集して、田畑を耕作するものは皆白髪混じりの老人やら身体障害者、女子供ばかりであるが、実に憐れ至極な世の中ではないか。

 そのうえ万一戦争でも始まりた日には、幾億という金を使い幾万の命を放かして人民は痛い上にも痛い目に会うて、国は半潰れになり、何時までも撚りが戻らず、残るものは少しばかりの軍人の功名と山子師の銭儲けぐらいである。アア世界にこれぐらい重い罪があろうか。これぐらいな禍があろうか。これがさっぱり畜生の世で強い者勝ちの悪魔の世界ではないか。こんな世をいつまでもこのままにしておいたらもうこの先は共食いをするより仕様がなくなるから、天からの命令で今度の二度目の世の立替えであるからなかなか大望なことの仕組みでござる。

 明治三十八年一月一日、ついに旅順陥落。その戦果のかげには、ロシア軍の装備する優勢な火力によって日本兵の累々たる屍の山を築かねはならなかったが、戦局はますます熾烈であった。「足もとから鳥が立つぞよ」の筆先が実地にあらわれるのは今こそと大本の役員信者たちはかたずをのんで待っている。筆先に似せて王仁三郎が書いたものなどくそくらえである。

「今の大本の役員信者は今度の戦争で世が根本から立替るように信じてあわてているなれど、世界中の修斎であるからそう着々とは行かんぞよ。今度の戦争は門口であるから、その覚悟でおらんと、後で小言を申したり、神に不足を申してせっかくの神徳を取外すことが出来いたすぞよ…」(明治三十七年旧七月十二日)

「こんど海の底にお住まいなされた乙姫どのが陸の竜宮館へおあがりになる御用に出口なおが二人を連れてまいるのであるぞよ」(明治三十八年旧四月七日)

 明治三十八年(一九〇五)五月十四日(旧四月十日)、神命を奉ずる出口なおは祈願のために沓島にこもった。露国の軍港ウラジオストックからこの舞鶴軍港沖の孤島まで、さえぎるものはただ岸を打つ激浪だけである。「竜宮海はこの沓島であるということを、こんどあらわせるのであるから、こんどの行はつらいなれど、この行をつとめてくれたら竜宮が開くのであるぞよ。この沓島に住まいをいたしておる元の世界をこしらえた、そのままでおる精霊体(にくたい)のある神が守護いたさねば、世界の人民がいつまでかかりて戦いをいたしても、人民はじりじり減るばかり。どちらの国もつぶれてしもうてなんにも効能ないことになるぞよ。出口なお七十歳、市太郎が二十三歳、六人めの伝吉が二十九歳。明治三十八年の四月十日(旧暦)にまいりて、岩にさしかけをいたすには、沓島のお山で枯木を拾うたり、木の枝をもろうて、難渋なことであれども、こんな御用は末代にもう二どはでけんけっこうな御用であるぞよ」(明治三十八年旧四月十六日)

 なじみの船頭田中岩吉と橋本六歳は出口なお、供の後野市太郎、大槻伝吉(なおの三男)の三人が沓島に上がったまま船を返すというので顔色を変えた。この島には大きな長いものがおるので昔から誰も恐れて近づかぬこと、島全体が巨大な岩だから水は一滴もなく洞穴は鰐の巣であるし、波の打ち上げるこんな岩の上では一夜も寝ることはできない 。けんめいな船員たちの説得にも笑ってなおは言う。

「神さまの御用ですさかい、なにこわいことがありますやろ。二十日たったら迎えに来て下され。そのとき姿が見えなかったらもう二十日して迎えに来ておくれなされ」

 二十日して姿が見えないとき…なおは何を考えていたのであろう。「沓島まで行ってくれたら、そのさきは知らん間に連れまいるから、なにも心配してくれなよ」の筆先のどおり、この先の竜宮へ、潮路をわけ入る覚悟であったのか。船を返すとなおは筆にすみをふくませ力をこめて岩壁に神号を書きつける。岩のくぼみに油を注いで神火を灯した。

 しじゅう潮を打ち上げるやや円形な水たまりを天然の水行場に選んだ。寝所は水行場のすぐ上で牛の背の形をして海中に突出した岩-…そこしかなかった。三人が岩壁の陰にかさなり合うように横たわる。

 へタに寝返りを打とうものなら牛の背をすべりおちて海底に転落するばかりだ。当時さして信仰のなかった伝吉は、筆先にのせられてうかうか沓島までついてきたことを早くも悔いていた。一日に三度の水行と礼拝、あとは筆先を書くばかりのなおであった。夜半でさえふと気づくと岩の上に端坐して月を仰ぎ星空に見入っている。その幽玄なばかりの姿はわが母とも思えず伝書は空恐ろしかった。その横で安らかな寝息を立てている若い市太郎の安心立命、神への燃えるような憧れと信仰も伝吉にはないものである。

 水行と礼拝のほかは薪(まき)を集めて煖をとるぐらいが供の二人の日々の仕事であったが、飢えと渇きには勝てなかった。三人の携帯品は、半紙一〆(二千杖)・筆・墨・種油一升・灯心・火くち・燧市(ひうち)金に三人分のござ・笠・茶わん・さじ、食糧としては煎り米二升・麦粉(はったい粉)二升・タナ米(俗にしわしわ米)二升・砂糖一斤半、水は竹筒(直径三寸五分長さ7尺六寸)一杯、これだけが神の許したすべてなのだから。麦粉小さじ三杯、砂糖一杯を海水でねって塩味をつける。朝も昼も夜もこの先ずっとそれだけである。

 水は一日に二滴、掌に受けて大事になめる。雨を待ちこがれるのに意地悪く晴天がつづき、のどが焼けついて体中が塩辛くかさかさする。五日目の十九日、偶然、ふくらんではおちる岩間の水滴を発見、それが清水とわかって狂喜する。その後は毎日、竹筒に受けて一杯ずつ飲むことができた。「沓島はおん水のないとこであるから、人民の住いはできんとこであるなれど、けっこうなお水を見つけて乙姫さまが、ここにあるということをお知らせなさりた。誠というものはけっこうであるぞよ。この世には、水と火がなくては、人民は一日もしのげんであろうがな」

 沓島での筆先の一節である。十九日夜、沓島へ行ったなり消息の知れぬ三人を案じて王仁三郎は本宮山に登り、石笛を吹きならした。神感があった。近日中に日本海海戦がありバルチック艦隊が全滅すること、沓島では若い二人が食物に窮していることを知った。

 翌二十日、王仁三郎は役員たちを招集してなおたち一行の窮状を語り「ムリにも連れ帰ってくる」と言った。しかし彼らは、なおの神業を妨害する小松林の言としか受けとらず、またバルチック艦隊全滅の予言も信じない。

「日本はいったんはどうにもならぬ窮状に追いこまれ神力にすがるしかない所まできて、大臣らが大本に頼みにくる。その改心ができたらいっぺんにぐれんとひっくり返して日本を助ける仕組みなのだから、その前にバルチック艦隊が全滅するわけはない」というのが彼らの独善的筆先解釈なのだから、王仁三郎の言葉を素直に受けとれないのだ。

 九日目(五月二十三日)の夕方、伝吉がたまりかねて「もう帰(い)なしてもらいますわ」と言い出した。なおは憔悴しきった二人の姿を憐れに思い「ほんに困った者たちを連れてきてしもうた、わたし1人なら十分の行をさしてもらうのじゃが、それでも神さまはほぼ御用もすんだよう言いなさるさかい二、三日したら帰なしてもらおなあ」と言う。と言っても舟はなし、人はなし、便りはできずどうやって?

「神さまにお願いするのや。本気で帰りたいなら心の底からお願いしてみな」 なおの先達で祝詞が上げられた。祝詞の最中から暗雲が空にひろがり、たちまち大風雨になった。海は轟(とどろ)き逆巻いて島は鳴動する。いまや沓島は激浪にのまれて竜体と化し荒海を突っ走りはじめた…。

  ひしと市太郎と抱き合いながら伝吉はそう思った。「ご苦労」となおの大声が風雨を引き裂いてとぶと、暗雲の中から光の筋が海上にそそぎ始めた。なおは泣いていた。なおの目には、ありありと竜宮の乙姫が海から上がるお姿が見えたのだ。なおは言う。

「竜宮の乙姫さまは、泥海の昔ながらの恐ろしい黄金色の御竜体のままでおられるが、あまり見苦しいゆえ、美しい姫のお姿に変じてご挨拶にあらわれなさったのやで。日本を攻める異国の船がたくさん参ったからこれからお手伝いに参ると言うてじゃった」

 翌朝、人声がするので伝書と市太郎は耳を疑いながら岩の端へ売り出ると、十余隻の船影が見える。沓島に棲む鯖(さば)鳥の卵をとりにきた漁船であった。漁師は「なおたちの姿を遠くから眺めた者がおり、沓島に露探(ろたん)(ロシアのスパイ)がいるとの噂が立ったため、海兵団は一時大騒ぎになったが、やがて綾部の金神さんとわかって地元紙に報道された」と語るのだった。 その漁師の小舟に乗せられて翌五月二十五日、なお一行は舞鶴へ帰着したのである。

 なおが沓島を去って二日目の未明、哨(しょう)艦信濃丸は対馬東水道を北上するバルチック艦隊の大隊列を発見、敵艦見ゆとの第一報を大本営に発する。

「(明治)三十三年六月八日に冠島参拝、七月八日に沓島開きに参りて、三十四年の (旧)四月十日に産水を投じに沓島へまいりた」(明治三十八年旧四月)

 右の筆先に示すように四年前の旧四月十日、新の五月二十七日、なおは沓島の釣鐘岩の上に立ち、元伊勢の神水を激浪逆巻く日本海海上に投じて叫んでいた。

「この水、三年で世界へ回るぞよ。世界が動き出すぞよ」

 これも一つの型ではないか。… 数えるまでもなく三年目に日露戦争(明治三七年(一九〇四)から明治三八年(一九〇五)がおこった。日本海に神水を投じてから四年日の旧暦四月十日同日から沓島ごもりが始まり、新暦同日(五月二七日)、まさに四年後のこの日、日本海海上で日露の決戦がおこなわれる(日本海海戦五月二七から二八日)。

 皇国の興廃この一戦にあり。日本艦隊の圧勝はたしかに日本を露国から守ったのである。

 

金神さんの寵地

 大本の予言どおり日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし役員信者が待ちこがれていたような大本の神のはなばなしい出番はなかったし、世界の立替えにも直接つながらなかった。彼らはオコリが落ちたように熱狂からさめ、それぞれの暮らしに戻っていった。すみは夫を自由の野に逃してやった。

 明治三十九年九月、王仁三郎は三十六歳で京都の皇典講究所教育部本科二年に編入、大八車に野菜をつんで京の町を売り歩き、学資を得つつ学んだ。共同の敵を失った役員信者たちは気が抜けたように遠のき、竜門館には秋風が立っていた。四方与平という老人が朝夕の神前のお給仕に通うほかは猫の子一匹こない淋しさである。いつもそうであった。 たとえ小松林命がかかっていようと王仁三郎がいれば教団は活気づき、いないとさびれる。すみは母や子供たち、それに穴太の実家を火事で失ったため綾部へ移住してきた王仁三郎の家族らをかかえて生活のやりくりに立ち向かう。

 縄ないや麦わら帽子編みの手内職をする。幼い時からなじんだ草がゆやドンダリ団子で空腹をなだめながら、夫の留守を支える。長い苦しい教団の冬であった。京都の皇典講究所を卒業して神職試験に合格し神官の資格を得た王仁三郎が、建勲神社や御嶽教などで実地を学び、ようやく綾部へ帰ってきたのは明治四十一年の末である。

 帰るなり王仁三郎はふところの全財産五十銭銀貨一つを四方与平に握らせて、大広間を建て増す古家を探してこいと命ずる。あとの金などどうにでもなる。たとえ無一文でも仕事さえすれば金のほうで追っかけてくるというのが彼の信念だった。

 〝世界改造業者″ これが、直日の小学校入学のときへ父親の職業欄に大書した王仁三郎の心意気であったろう。王仁三郎は縦横に腕をふるって教団の立替え立直しをはじめた。すでに教義はできていた。あらたに公認問題と取り組みつつ、祭式を整え、組織を充実させる。

 明治四十二年(一九〇五)二月には機関誌『直霊軍』を創刊して、文書活動に乗り出した. 「神の方はいつ何時でもかかるからいったん新聞に出して日本へだけなりと見せておかねば神の役がすまんから、この筆先出してくれいと申したならば早く出して下されよ。この出口にいま書かしたことを、せんぐり新聞に出してくださらんとものごとがおそくなりておるぞよ。新聞屋をせりたててくだされよ」(明治三十三年閏八月二十三日)と神は要求していた。

 王仁三郎がこの機関誌で最初に着手したのはなおの筆先の中での社会に対する予言と警告のくだりを解説的に外部へ出すことであった。B5判八ページの小冊子で発行所は綾錦(りょうきん)社。おそらく王仁三郎の自室であろう。編集人や発行者は他の役員の名を借りているが、実際は印刷・製本・帯封書き・発送まですべて王仁三郎一人であった。開教以来十数年、丹波の片田舎で"立替え立直し″ を叫びつづけた大本の主張が、当時の他教団では思いもつかなかった活版印刷によってひろく世人に訴えはじめたのである。

 明治四十二年五月五日、大広間上棟式、神苑を買い広めて秋には閲教以来の念願であった神殿も完成する。宣教は日に日に広がり、カある新しい役員たちが王仁三郎を支えて大祭は年ごとに賑わってくる。

 大正三年(一九一四)夏、王仁三郎は「竜宮の乙姫さんの池を掘る」と宣言した。「竜宮の乙姫殿にはお住まいなさる、お遊びなさる所をこしらえて上げますのざ。出口なおに初発の形がさしてあるぞよ。この近くの屋敷のうちにざいぶ(大分)大きな堤も掘らなならんぞよ」(明治三十七年旧十二月十八日)   この筆先が出て十年、沓島ごもりから九年目に王仁三郎はようやくこの神命を果たそうとする。それを果たせずにいた長い間、胸にあたためていたのであろう。構想は雄大であった。建築中の金竜殿の西北に大きな池を掘り、池の中央には冠島・沓島のひな型を配し、小さな宮を祀って小舟で渡る。

 池の西側に大和島を作り、北と南からみろく橋をかける。池の東南隅から突き出た小島を蛙声(あせい)園と称し、小さな茶室を設ける。南の池畔には蝸牛(かたつむり)亭を建てる。金竜殿の東側にも島を作り大八洲神社を造営する。将来は金竜海をさらに西に広げ東西の池を幅広い水路でつなぎ、その上に本宮橋をかける。

 全部完成すれば三千余坪の人工池が神苑内に満々と水を張りお宮のある小島や橋の静をうつす。これらは総称して"金竜池″ と呼ばれるはずであった。この頃のなおは変わらず神務にはげんでいたが、坤の金神の守護となった王仁三郎にすべてをゆだねておだやかであった。王仁三郎から新しい神苑の構想に加えて、その中に日本のひな型として大八洲を配し、おしどりの遊ぶ天国浄土を移写すると聞かされたなおは神意の実現として喜んだが、ただ一つ"池″ の呼称にこだわった。

 「この人間界での"型″はなたしかに池じゃろうが、神界にうつる姿はそんな小さいものでははござへんで。八百万のご竜体の神々きまがみなお集まりなさる大きな海やさかい・・・・・・」

  王仁三郎は即座に"金竜海″ と改名した。金竜海の第一期工事予定地は野菜畑であった。この畑地を入手して以来、王仁三郎は雑草はびこる野に戻しておいた。潔めるためにである。

「荒地にしておいては罰があたる」とすみは言い、奉仕者を励まして草を抜かせ、耕して人糞を入れる。王仁三郎がだまって野菜の芽を抜き、すみがまた植える。そんな争いを繰り返していた土地である。

 「お池を掘る土地を、潔めるためだと一言おっしゃれば、二代さま(すみ)だって畑にはされないでしょうに」と、のちに不満をもらした者に王仁三郎は答えている。

 「悪魔のさやる世の中、おしゃべりの多い世の中や。もしここに金竜海を掘ると明かせば神のお経綸にどんな邪魔が入るやら知れん。おまけにまだまだ土地を買収して神苑を拡張せなならん時代やった。もしそれが分かれば地価は一度に暴騰するやろ。不如意な大本の経済の中でのやりくりや。たとえ女房子供にでも洩らすわけにはいかん」

  金竜海掘りを発表した時点、すでに周辺の土地は彼の手で買い占められていた。王仁三郎のやり方は無謀なようでも慎重な準備とねはりづよい配慮があった。上野に三千五百坪の植物園を作り小松の苗を植樹したときもそうである。未来の神苑にはここで育った松を移植し松の緑でおおう腹であった。

「小松林がこんな小松苗ばかり植えさせて」と怒ったすみが引き抜く。王仁三郎がまた植える。すみが抜く。王仁三郎が植える。たまりかねてなおに訴えると「先生にお考えがあるのじゃろ」とすみをたしなめる。

「それでも筆先には『今にたべものの不自由な時がくる。猫の額ほどの所にも種をまけい』と出とりますわな」とすみは言い返す。筆先を楯とするとき、すみは誰の命も聞かぬほど頑固であった。なおも合点し、王仁三郎を呼んで引き抜くことを命じる。

「わしは神さまの言いつけ通りにしとるのや。教祖はんは知らんでも教祖はんの神さまは知ってなさる。開いてみなはれ」

 王仁三郎の言葉になおが神前にぬかずいて伺いを立て、やがてほっとしたように笑いだす。「すみや、神さまは『あの者の思うとおりにさしておいてくれい』と言いなさるわいなあ」

 七月二十五日に金竜海各島のお宮と蛙声園の起工式がおこなわれる。三日後の二十八日、第一次世界大戦が勃発した。日本も日英同盟の情誼を理由に参戦を決意。八月二十三日、対独宣戦を布告した。

 またまた立替え説に色めき立つ信者たち。しかし今度は前のような調子にはいかない。外の戦争に心うばわれるひまなどなかった。王仁三郎の池掘りにかけるすさまじい情熱に圧倒され、役員信者は総出で泥んこになり土を掘る、もっこをかつぐ。昼はみずから陣頭指揮にあたり、夜ごとの二時三時…寝静まる工事現場を一人こつこつ見回わる王仁三郎であった。

 真っ先に蛙声園の茶室ができ上がると居をそこへ移して執筆しながら督励した。金龍海掘りには教団の全精力を傾けた。「神さまがお急ぎじゃ、みな出てこい」 号令一下、老若男女小学生に至るまで作業を手伝った。奉仕者全員が動員されるため教団の事務といえば、黒門前の大広間受付けにただ一人坐っているだけである。池掘りは連日強行されたが、誰の胸にも大きな不安がわだかまっていた。ここらは高台の屋敷地で、四、五尺も掘り下げれば綾部特有の一枚岩根につきあたる。綾部の人たちはそれをよく知っている。

「あんな高い所に池掘って水はどうする気やいな、夢でも見とるんと違うか」と噺笑し、"金神さんの籠池"と命名した。すみが忠告しても「そんなこと知らん。神さまが掘れ言わはるさけ掘るだけじゃ」というばかり。冠島・沓島・大和島の形もととのい、簡素なお宮を囲んで小松も植樹されたのに、いまだに水一滴出ない。すみはあきれてぼやき出す。

「ほんまに阿呆なことしよって、よい笑われもんやな。なした男やいな、この男は…」「まあ見ておれ、おすみ。もし水が出なんだら神さまの言わはることが嘘になる」

 王仁三郎の目には満々と水をたたえた金竜海が見えるのか、その表情に微塵のゆるぎもない。

 ある夜、京大阪方面の宣教を終わって終列車で帰綾した王仁三郎は、その足でまっすぐ工事現場に行き、予定どおり作業が進捗していないのを知った。統務閣(教祖殿ともいい、なおは晩年までその一室で筆先を書き、次の間を居室とした)に駈け込むなり凄まじい見幕でどなる。

「こら! おすみ。わしが帰るまでにやっとけ言うたこと、まだ半分も出けとらん。おのれ、何さらしとったんじゃ」

 顔は朱をそそぎ、目はきらめき、髪は逆立って明らかに帰神状態である。そのままつむじ風のように深夜の町へ走り出し、本官、上野、東四つ辻などの役員や信者の家々を叫び廻った。

 「神さんの経綸がわからん奴はどいつもこいつも出て失せい」驚いた連中が寝ぼけまなこでぞろぞろと工事現場に集まる。肌寒い仲秋の真夜中、現場にかがり火をたき、そのあかりを顧りに強行作業が始まる。

 かがり火を背にして仁王立ちとなった王仁三郎。ふくれっ面のすみでさえ手を休めるどころではない。深夜の工事現場には殺気に似た緊張感がみなぎった。こうして徹夜の作業が何度かくり返される。

 ただやみくもに完成が急がれたばかりかというとそうでもないフシがある。若い者は王仁三郎に連れられて山へ行き、砕いた岩をロープで引っばって工事現場へ運ぶ。それらを金鳥海周辺の石垣に組む。

「これこれを土台に、この石をこう向けにこう上げてこれはこう・・・」と石積みの指示は細かい。ジャッキなどなくすべて人力だから、五つ六つただ積み上げるさえ重労働である。

 積み上がった頃を見はからって王仁三郎が検分に現われる。「こら、こんなアホーな積み方があるか。やり直しじゃ」とせっかく積んだ石を挺子(てこ)で無惨にくずしてしまいさっさと蛙声亭に引き揚げる。みなはポカンとしている。

「あれでは若い者がかわいそうです。やり直しやり直しでは工事も進まへん」と苦情を持ちこむ役員には、こう答える。「お前らの身魂の立替え立直しの型やわい」 

 そう言われても、どう積み直してよいかわからない。やがて役員たちは要領よくなり苦情のかおりに誰かが代表してあやまりに行く。「どうも不都合なことで申しわけございまへん。おっしゃるとおりに立て替えますさかいもう一ぺん現場でお指図ねがいます」

「へい、本気で心から立て直さしてもらいます」「よしほんなら行ったろ」 ニヤッとして王仁三郎は嬉しそうに現場に出て行く。茜色の夕陽をあびつつまた土台からやり直しだ。

 来る日も来る日もこんな無駄と思える作業の中に、当時二十三歳の佐藤忠三郎も加わっていた。無性に娑婆が恋しくなる。現場から抜け出て本宮山の麓の薮かげに寝ころびなんとか大本から逃げ出す思案をしていた。

「おい、佐藤。煙草の火をかせ」とつぜん薮かげから片手が出てきた。「逃げ出すのはまだ早い早い」 王仁三郎である。煙草をうまそうに吸いつけどっかと佐藤の脇にあぐらをかいた。

「賽(さい)の河原の石積みや。積んでも積んでもくずされる。積まんほうがましやないか、わしもそう思うときがある。お前らといっしょや。築いても叩きこわされるんじゃ、いずれはなあ…」

 まるでこわされるのが王仁三郎自身であるかのような深い淋しい声だったそうである。「せっかく築き上げた石垣をなぜくずすか考えて見たことがあるか。竜神さんの池を掘るだけが目的やない。掘ることによって誠の信仰がどんなものか教えとる。たたかれても倒されても起き上がる。つぶされてもこわされても立直す。神の道は服従や。理屈をこえた神への絶対服従が人の道や。わしはその精神を植えつけとる」「だってみな服従しとりますやろ。あんな無茶なやり方でも神さんの命令だと思えばこそ文句も言わず…」「形の上ではのう。しかし心の中では文句たらたらや。服従にも二通りある。軍隊で上官が兵率に強いるような権力による服従なら、まず形式を絶対とする。立替え立直しを実現する大本の神の道は形ばかりではあかんのや。心から任せきった精神的服従でないとこれからの使いものにならん。

 ばかげてると思ってもそこに我意以上の神意を感じて積み直す。それぐらい我を捨てんと今度の大神業のお役には立たん。わしも我意で考えれば、あんな所に池を掘って水が出るとは思わん。けれど神さんが掘れと命じなさるから掘るのや。籠池と笑われようが掘る。金竜海に水が満ちるのは神意だからわしらは気楽に掘ればよい…」。

 王仁三郎が立ち去ってからも佐藤はしばらく動けなかった。よーし、金竜海に水がたまるかどうかこの目で見届けてやる、わしの進退はそれからや。

 この思い出を私に語ってくれた佐藤忠三郎(尊勇)も今はない。生涯を大本に捧げつくして八十四歳の天寿を完うした。

  大正四年三月初め、大本を訪ねた町会議員や町の有力者を送って出て王仁三郎はそのまま空を仰いでいる。

「また何か…」すみが側に寄ると王仁三郎の目にこぼれそうな涙があった。「おすみ、水が…水があちらさんからやってくる」「くる…言うても…どこにじゃいな」「金竜海にきまっとるわい」

 綾部町の排水溝は管理も不完全のまま荒れるにまかされ、汚水は停滞して悪臭を放っている。町当局でも放っておけなくなり御即位記念事業の一つとして新しく排水溝を作ることになった。たまり水の流水を容易にし、さらには防火用と耕地灌漑用にも利用したい。

 水源地の質山から引いた水は寺村を通り、すでに本宮山麓の高台に用水池として貯えた。そこから水を町へ落とすための勾配を調査すると、水路として必要な土地はいつの間にやらすべて大本の所有に移っている。町では寄合いが開かれ、どうしても大本の敷地内に水を通させてもらいたいと申し出てきたという。

 「神さんは『人の手を借り口を借り、でけんことさして見せる』と言いなさるがほんまやのう、おすみ--」

 質山の水が金竜海にいったんみなぎり、そこから町へそそがれる…。役員信者の気勢はとみに上がって、総出で昼夜兼行の工事が続く。同時に町でも金竜海につながる水路を掘り進めた。ついに幅二尺、深さ一尺ほどの板樋いを伝い、清列な水がほとばしってきた。王仁三郎・すみはじめ、泥んこの信者たちは水口に走り寄り、篭池と嘲けられた金竜海にいま確かに泡立ち満つる水を見つめた。

「この竜神さんの池水がまず綾部の町の汚濁を洗い清め、やがては火と水で世界の泥をすすぐという型になるのじゃ」

 王仁三郎の声を開きながら、佐藤はせきあげる鳴咽(おえつ)をこらえた。…「神さんが掘れというから掘るんじゃ」という言葉だけが、その後の彼を大本に生かしつづけたのかもしれない。

 神島開き

  大正五年の二月下旬であった。「さっきから目をあげてもつむっても小さな島が見えてしょうがない。どこかで見たことのある島やが・・・、松が一本きりしかない丸い島や。どこやったかいなあと思うてあちこち霊視しとるのやが、坤の方向としか分からん。その島がどうにも慕わしゅうてならんのや」と王仁三郎はすみに言ったが、その夜から王仁三郎の右目の下の所が疼き出し隊れ上がった。

 すみが押えると石のような固まりが指先にふれ、ひどく痛がる。その固まりは時とともにごく僅かずつ下へさがり、やがて頬骨を越えた。王仁三郎は役員の村野竜洲と信者の谷前貞義を呼んで、坤の方角にある神示の島探しを命じた。二人は大阪湾一帯から和歌山の辺まで雲をつかむような島を求めて歩きまわった。

 四月五日、王仁三郎ら一行二十名は大和の橿原神官に参拝、続いて畝傍(うねび)山に登り山頂の畝傍神社にぬかずいた。大正天皇御参拝の三日後であった。拝礼のあと王仁三郎は同行の村野に告げた。

「あの島や。今度ははっきり神示が出た。朝日のたださす夕日のひでらす高砂沖の一つ島、一つ松、松の根元に三千世界の宝いけおく-・・・」「高砂沖にある一つ島、一つ松…わしは播州生まれやけど高砂沖にはようけ島があるし…それだけの特徴では--」と村野は言う。

四月八日、王仁三郎は村野を連れて大阪へ出、大本の難波出張所の神前で神がかりして二首の神歌を詠じる。

 

世を救ふ 神のみ船はあづさ弓 播磨の沖に浮きつ沈みつ

三千年(みちとせ)の 塩浴みながらただ一人、世を憂し島にひそみて守りぬ

  右目の下の疼(うづ)きは下りつづけて四十八日目の四月十三日、ついに右の歯ぐきに真白な頭をのぞかせた。すみが指先に力をこめて引き抜くと、底の平らな純白のきれいな石が出てきた。すみが声をあげた。

「あ、この形は金竜海の大八洲さんや。小松を植える前の大八洲さんそっくりですで、先生…」「そうか、どこかで見たと思うたはずや。おすみ、これは石やない、舎利や。わしの捜している一つ島と同じ形じゃ」

すぐに村野を呼んで、小箱に納めた白い舎利を見せる。

「よいか、この形を覚えるのやで。金竜海にはもう型が出とる。大八洲さんと舎利と一つ島とは同じ形や。この形の島を捜せ」

 探索は再開された。六月初旬、村野と谷前は播磨灘についに目指す島を発見した。高砂港の波止場から眺めると、右に家島(えしま)群島・小豆島、左に淡路島がぼんやり見える。

 その中間、沖合三里にやわらかな丸みを帯びた小島…神島がそれであった。神島は四十八家島群島のいちばん上にあるから上島、ほうらく(素焼の平たい土鍋)を伏せたような形なのでほうらく島、見る方向によっては牛が寝そべった姿に似ているから牛島ともいう。

 王仁三郎が神がかりして詠んだ神歌に出た「憂し島」も牛島を暗示している。島の端にひょろんと一本松が見える。竜門と名づけた岩屋があって鱗のある竜の出入で黒光りしているという神秘の伝説をもつ孤島でもあった。

 六月二十五日、大本の一行六十三名が三隻の船に分乗して神島へ向かった。船頭たちの目にもいかにも変わった一行とうつった。男も女も子供たちもすべて和服姿で刀を持っている者も何人かいる。とりわけ目立つのは王仁三郎の女装と直日の男装の姿である。

 王仁三郎は豊かで長い黒髪を中央で分け、頭上に大きく髷(まげ)を結い、残った髪は背と肩に流している。念入りな女化粧に赤・白・黒三枚の裾模様をかさね、帯は前で結んで長刀を握りシャナリシャナリ。

 直日は髪をきりっと一つにたばね、白の剣道着に横縞の袴(はかま)を短くはき、腰には脇差を一本ぶちこむ武者少女の姿。

 右手首に白の風呂敷包みをからませ、左手に<木の花直澄>(直日の雅号)と書いた笠を持っている。

 午後三時、磯岩つたいに渡る王仁三郎のあとを追って全員上陸。人の背丈ほどの矢竹(別名女竹)が一面に生い茂る中を声をかけ合い引き合いながら、三町余にして山頂に辿りつく。王仁三郎が長刀を抜いて矢竹を切り開くと刀を持っている者はそれに習い、やがて六十余人の坐る空地ができる。綾部から背負ってきた宮(高さ一メートル・横五十センチ)を正面におき、矢竹を敷いて一同はその上に坐した。

 王仁三郎は潮風に向かって石笛を吹き鳴らす。石笛の音は山頂に響き渡り、一つ松をめぐり、 波間に尾を曳いた。神示によれば、この島にこそ坤の金神が三千年もの間こもっておられたのだ。女竹を取って弓矢をつくり、えびづるのしなやかな茎で弓づるを張った王仁三郎は一同の合掌の中でこの世の邪気を射放つ型を四方に示す。それから坤の金神の鎮座を願って山頂の式典が行なわれた。

 神霊の鎮まりたまう宮を捧持して山を下り、砂浜のわずかな広場に勢揃いして記念撮影した。帰途の船の中で王仁三郎は男装に戻る。

 六月二十八日午後一時過ぎ、帰着した一行はひとまず竜門館に宮を安置する。統務閣の自室へ入った王仁三郎は再び女神姿となって教祖室の襖を開いた。なおは驚いて身じまいを正し声を上げた。

「坤の金神さま…」この日をどれだけ待っていたろう。なおにかかる艮の金神国常立尊と、王仁三郎にかかる坤の金神豊雲野尊が世に落とされて幾万星霜絶えて久しい再会なのだ。 夫婦対面の神霊の喜びをこめてその夜祝いの盃を交わした。十月四日(旧九月八日)午後四時、筆先の神示によって神島まいりに出発する。出口なお(八十一歳)、王仁三郎(四十六歳)、すみ(三十四歳)、それに直日(十五歳)ら五人の娘たち、出口家親戚一統、役員信者たち八十一名は高砂港より大小九隻の船に分乗する。

 風が出てあゆび(船と陸を渡す四十センチほどの幅の板)が揺れていたが、老齢のなおが畳の上を歩くようにスウと渡った。その姿の神々しさに「この人は生き神さまやなあ」と嘆声をあげる見物人、さそわれて手を合わせる人びとも多かった。

 出船は五日午前二時、どうしたことか王仁三郎はだまりこくり、一言も言葉を発しない。神島まいりのあいだじゅう指示はすべて王仁三郎の筆で示された。

 その夜、出口家一統は大阪松島の谷前貞義方に宿泊した。谷前家の離れの二階で王仁三郎は無言の行のまま神像を描き、階下では神島から捧持した宮の傍でなおが筆先を書いていた。すみは母の背に異様な昂ぶりを感じてハッとした。 宮の前に顔を伏せなおが震えている。声をかけると振り向いたなおの顔に血の気がなかった。

「先生がのう…」 しばらくなおは息をつめたが思い決して一気に言った。 「…先生がみろくさまやったでよ…」

 その言葉の意味がすみには呑みこめなかった。心底から深い溜息をついてなおは言ったという。

「先生はみろくの大神さまじゃと神さまがおっしゃる。何度お訊きしても同じことや。わたしは今の今までどえらい思い違いをしていたのやで」

なおはいま出たばかりのお筆先を取ってすみに渡した。

…みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、スサノオノ命と小松林の霊が、みろくの神の御霊で、けっこうな御用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天の御先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。二度目の世の立替えについては、天地の先祖がここまでの苦労をいたさんとものごと成就いたさんから、永い間みな苦労させたなれど、ここまでに世界中が混乱(なる)ことが世の元からわかりておりてのしぐみでありたぞよ…。

 なにかの時節がまいりたからこれから変性女子の身魂を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして、三千世界の総方さまへお目にかけるが近よりたぞよ。出口なお八十一歳の時のしるし。(大正五年旧九月九日)-以下『大地の母』十巻"天下の秋″ より抜粋する。

…なおはいつまでも眠れなかった。王仁三郎を天のみろさまと知った喜びか。はた不覚にも今までそれを悟り得なかった悔恨か。王仁三郎と初めて出会った十八年前、若い若いまだほんの子供としてぐらいより見ぬなおであった。神命によってすみの婿にこそしたものの、人間心では常に批判せずにおれぬ男であった。それを神は縦糸に対する横糸、厳に対する瑞、変性男子に対する変性女子としてみろく神業には欠かせぬものと規定した。

 それでいながら争いは根深かった。どこどこまでも小松林を追いつめて追い落とさずにはおれなかった。互いにかかる神霊同士のあの長い峻烈な火水の戦い。なおは悩み抜きついに王仁三郎こそ坤の金神の御用という動かぬ認識に立った。が、それもあくまですさのおにかかる艮の金神の補佐神としての坤の金神であったのだ。

 それを神は坤の金神も素盞嗚命も、いや、なおがあれほど非難した小松林命までとび越えて、すべてがみろくさまの霊であり、みろくさまこそ根本の天の御先祖さまであると示されたのだ。さすがに太いなおの肝魂がでんぐり返るほどの驚きであった。

 旧五月二十五日、王仁三郎が神島の神霊を大本にお迎えしてきたのに、神は再びなおに神島渡島と神霊迎えを命ぜられた。なぜ二度までもとなおはいぶかしんだが今こそ思いあたる。王仁三郎が女装までして現われたのはなおのためであったのだ。坤の金神のお姿だとなおは驚きながら、もう1つ奥の天のみろくさまとは夢にも見抜けなかった。その不明のために神はわざわざ神島のお土を踏ませなさったのだ。無言のうちに悟れよと王仁三郎は示していたではないか。それすら王仁三郎のわがままとなおは心の底で思ってはいなかったろうか。

 ふと虚心に返ると、虫のすだきが地の底から湧き立っていた。八十一年間の長すぎるばかりの生涯を顧みれば、春夏秋冬、季節の移り変わりを鑑賞するゆとりすらなく生き続けた。帰神までは夫や子らを養うための生活と戦い、帰神後は神業一筋に身も魂も没しきった。色花を見ることさえ、心のゆるみと忌み恐れて…・それがいつか〝我″となっていったのに違いない。

 その最後の我もぽっきり折れた思いであった。毎年鳴いている筈の秋の虫のすだきがも今は痛いくらいに身に沁みる。縦糸は張り終わった。後は横糸が自在に織りなすのを待つばかり。どんなに途方もない錦の御機(みはた)(後述)が織られるのだろう。それもなおがこの世で生きて見ることはあるまい。あとは天のみろくさまのかかられる王仁三郎に任せよう…。

 深い安堵の底に一抹の淋しさが忘れていたなおの涙を呼びさましていた。大本の活歴史はまさしく神の仕組んだ勇壮なドラマであり、登場する役者たちは神に引きよせられ縦横にあやつられてきた。そのあげくの見事な逆転劇である。

  "立替え立直し″ は換言すればすべての価値の転換でもあろう。悪神・崇り神として押しこめつづけた艮(鬼門)の金神・坤(裏鬼門)の金神が実はこの世を造り固めた人群万類の祖神であると認識することは、第一に天地のひっくりかえるような神観の根本的転換でなければならない。

第二には、みろくの出現によって大本の内側に起こった認識の転換である。つまり.艮の金神に再出現を命じた天の主体者であり、国祖退隠のおりの神約どおり明治三十一年から大化物としてなおの神業と対立するように見せながら、実は助けてきたというのがみろくさま。すでに大正五年旧七月二十八日の筆先で「みろくさまのお出ましになる時節が参りてきて天と地との先祖が表になりて三千世界の世の立直しをいたすぞよ」と予告し、大事の経綸は今の今まで申さんということが、筆先で気をつけてあろうがな」と注意もあった。この神島開きの筆先は大本の従来の神観に対して大きな修正を命じるものである。王仁三郎の神格と使命がみろくの神の御霊であるというこの神示が出てはじめて、今まで絶対に許されなかった筆先の選択や加筆(ひらがなの原典に漢字をあて、意味をさらに明確にする)などが公然と可能になった。これが『大本神諭』として世間に広く呼びかける発火点ともなるのである。

 王仁三郎の肉体に"みろくの大神"がかかったなぞと言えば「だから王仁三郎は大ボラ吹きの大山師だ」と不快に思われるかたがたもあろう。あるいは仏教でいう弥勒菩薩を勝手に借りてきたのだと疑われるかたもあろう。たしかに王仁三郎が自分であらわした筆先に出たのなら眉つばである。しかし、これは出口なおが自分の意志とかかわりなく書かされたものである。この筆先が出たとき、なろうことならなおは破り捨ててしまいたい衝撃だったに違いない。筆先を絶対と信ずるなおであるからこそ、我を折った。わが手で書いたもので改心させられたのである。

 なおと王仁三郎の血みどろの相互審神の結果、じつは王仁三郎に懸る坤の金神(スサノオ命、小松林命もふくめて)こそ みろくの大神であるとなおの筆先が実証する、いわば大本的弁証法がここに見られる。

 『霊界物語』(第七巻総説)では、出口なおが王仁三郎の神格を"みろくの大神"と認識した大正五年以後は"見真実″ に入ったといい、それ以前を"未見真実"の境遇にあったとしている。なおが"見真実″ の境域に適したのはようやく昇天の二年前であった。

 

立替え・立直し

 

 大本では"立替え・立直し″ を呼号する。それは"革命″ と似たものなのか、あるいは全く異質の事柄なのか。革命は人為の力によって"人間智″ の限界内でおこなわれる。しかし大本が人為の営みを超えた使命のもとに存在する以上、立替え立直しは人間力・人間智を準えたものとの認識があるはずだ。そこに革命との明確な相違があるはずだ。神秘性をもつ予言や型とのつながりもそれゆえ感知できる。

 人間と神との協同作業による世直し… けれども受け取る側のいかんによっては人為力と人間心に挑発される事態も生ずるのではないか?

そこに危険な一線も伏在するとは言えないだろうか?

その辺はどうなっているか。わたしたち読者の疑問もそこにある。

 

スサノオノ命に罪を被せていいのか

 

スサノオノ命が天のみろく神…?

大方の読者には納得してくれというほうが無理であろう。"記・紀神話″ のスサノオノ命は天の岩戸閉めのおりに述べたように父神に地上を追われたうえ、皇祖神であるアマテラス大神に抵抗し高天原で乱暴を働く。ついには常闇の世を招くに至って万神の怒りをかい、高天原からも追放される悪神なのである。

 しかし大本では長い審神をへたのちにスサノオノ命こそ瑞の御霊の救世主神であり"贖い主″ であるとの確信をつかんで信仰し敬慕するに至った。これは明治政府の宗教政策により作為された神道系宗教には見られない神観である。

 なぜ大本ばかりは世間のいう悪神崇神を信ずるのか。なおにかかる鬼門の艮の金神ばかりか王仁三郎にかかるスサノオノ命まで。

 もう一度、恐縮ながら『古事記』をふり返っていただきたい。高天原を追われて出雲国に降ったスサノオノ命はどうしたことか突如、詩的で英雄的な神に変神する。無能で女女しくただ手をつかねて泣くばかりかと思えば乱暴狂乱、なにひとつ取柄のなかった神がここではヤマタの大蛇を退治してクシナダ姫を助け、大蛇の尾から出た名刀をアマテラス大神に献上するのだ。勇気凛々、すぐれた知謀、果断な処置、自分を追放した姉君へさらりと向ける崇敬の志。それに出雲の地に須賀の宮を建て、妻を得た喜びを「八雲立つ、出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と(吾妻=日本のこと…後述)妻への思いを美しい歌に託す詩情。 いったいどちらのスサノオノ命が実像なのか。年を経て、スサノオノ命が、根の堅州国(かたすくに)に住んでいた時はどうだったであろう。八十神という悪逆無道の兄妹を持つオオクニヌシノミコトが救いを求めて、その祖であるスサノオノ命のもとへ逃げこむ。ところが、スサノオノ命の娘、スセリヒメと恋におちたオオクニヌシノ命をスサノオノ命は蛇の室、 むかでと蜂の室、野火の中などに入れて試す。がヒメや野ねずみの助けを得てオオクニヌシノ命は無事切りぬける。あげくに彼はヒメと共謀して寝ているスサノオノ命の髪を垂木に結びつけ、大岩で戸をふさいで、スサノオノ命の政治的支配力・宗教的支配力を象徴した生太刀(いくたち)・生弓矢と天の詔琴(のりごと)をぬすみ出しスセリヒメを背負って逃げ出してしまう。

 天の詔琴の音に驚き、気づいて結びつけられた髪を解かし、ヨモツヒラ坂まで追い至ったスサノオノ命は、遠く逃がれゆく二人を望んで何と叫んだであろうか。

「そのお前が持って出た生大刀・生弓矢で八十神どもを追い放ち、国の支配者となって、わが娘のスセリヒメを正妻とし、字迦の山に立派な宮殿をつくって住めよ、こやつめよ!」   髪の中に無数のむかでを飼っておくような、みるも恐ろしげなスサノオノ命、 その婿を試す方法はいかにも荒っぽいが、けれど最後のせりふにこもる深い情愛はどうであろう。かわいい娘と生命ともいうべき宝をぬすみ逃げした男に対して「こいつめ」と、投げる一言に無限のいとおしみがあふれているではないか。数々の試練をくぐり抜け自分をあざむく男ではあるが、その間にちゃんとこの男の資質を審神し、娘との愛をもたしかめ、その未来まで授けて祝福してやるという何とゆきとどいた男であろうか。ここでも姉神アマテラス大神に向けたと同じ自分への仕打ちに対する、恨みも怒りも持たぬ深いひろやかな愛を感じてしまうのは、私のひいき目なのであろうか。

 スサノオノ命は、世間ではいまだに"罪人″である。高天原での重い罪はまだ晴れぬまま、神やらいにやらわれて根底の国に追放されたままだ。もしスサノオノ命の犯した罪状を法廷に持ち出したとしたら、裁判官はどんな判決を下すだろう。スサノオノ命にかぶせられた神代以来の汚名をそそぎ、天と地を治むべき姉神と弟神の間を引き裂く心のしこりを解きほぐすことができたら…不肖ながら私は弁護士となり、王仁三郎のスサノオノ命観にもとづいて所信をのべてみたいと思う。

  まずスサノオノ命が告訴されねばならぬ罪状は次の三つであろう。

一 父イザナギノ大神よりゆだねられた地上世界を統治できぬばかりか、投げ出して母の国へ行きたいと弱音を吐き、父神を激怒させた罪。

 

二 天の安河原での誓約で身の潔白が明かされたとき、「われ勝ちぬ」と叫びアマテラス大神の営田(みつくた)の畦をこわし、溝を埋め、その年の新嘗をいただく神聖な御殿に糞をまき散らしたりの狼籍(ろうぜき)の限りを尽くした罪。

 

三 忌み服屋の棟に登って大きな穴をあけ、そこから天の斑馬を逆はぎにはいで落とし入れ、織女の一人を死なせ、アマテラス大神の岩戸どもりの直接原因を作った罪。

 さて、第一と第二の罪については王仁三郎が生前すでに弁護に立っている。

〔第1の罪〕 神命を受けたスサノオノ命が地に降ったとき、地上は手がつけられぬばかりに乱れていた。もともと軽い清浄なものは天になり、重く濁ったものが沈んで積みかさなり地をつくったのであるから、その成り立ちがすでに体的にでき上がっている。

 当然肉体をもつ地上人類の体的欲望は激しい。霊的性能が体的性能に打ち克つための、すなわち霊主体従のスサノオノ命の神教など、どんなに血を吐くほどに叫んでも、体主霊従になり切った人々には通じない。悪盛んにして天に勝つ。地上神界ですら、すでに国常立命の威霊は艮に退隠され、天地の律法は名ばかりの世であった。治まる時には治めずとも治まるが、治まらぬ時にはどんな神が出ても治まらぬ。スサノオノ命は父イザナギノ大神のお咎めに対して一言の弁明もせずも地上人類の暴逆や不心得をも訴えず、罪を一身にかぶって黙って引退する覚悟であった。咎めるイザナギノ大神もスサノオノ命の苦衷を察せられぬはずがない。しかし地上人類を傷つけまいとされる命の誠を汲みとられて、ご自分もまた怒ったふりをなされる。

 今、自分の子一人に罰を与え罪人としたならば地上人類も、悪かったと気づいてくれよう。改心してくれよう…その悲願を込め、涙をのんで大神は貴の御子を地上から追放されたのであると。

 

〔第二の罪〕 スサノオノ命は地上を追われて母の住む根の堅州国に去るにあたって、姉アマテラス大神に別れを告げるべく、高天原へ上った。地上は統治者を失ってたいへんな騒ぎとなった。その報せに、これはただごとではないと驚かれたアマテラス大神は「高天原を奪りにくるのであろう」と疑い、武備をととのえ待ち受けられる。そこでスサノオノ命は、ご自分の心の潔白を明かして姉君のあらぬ疑いを晴らすために、天の安河原で誓約の神事をなさる。その結果、たけだけしい五人の男神の霊性であったアマテラス大神に比べて、スサノオノ命の霊性はやさしく美しい三人の女神であると知れる。

 これで高天原を奪ろうというさもしい心などなかったことが証明された。このあとスサノオノ命は勝ちさびに例の乱暴を働き、第二の罪を作ったことになっている。王仁三郎の解釈によれば、それらの乱暴は地上から従ってきたスサノオノ命の部下たちが、あらぬ疑いをかけられた無念を、だまってがまんしきれずに命の深い心も察せず引きおこしてしまった集団行為だという。

〔第三の罪〕それにしても天の斑駒を逆はぎにはいで落としたのは明らかにスサノオノ命自身である。こればかりは何としても弁護の余地はなさそうに思える。安河原の誓約では確かにやさしい三女神の魂を持っていたはずのスサノオノ命が、なぜそんなわけのわからぬ行為に出たのか。その矛盾がひっかかってならない。そこで念を入れて犯罪現場に戻り推理してみよう。

 トンカラリ、トントンカラリトンカラリ--  高天原の中でも神聖な御殿である忌服屋(いみはたや)では、今日も織女たちが神にささげる御衣を織っている。よこ糸の動きを目でとらえながら、アマテラス大神のご胸中は穏やかなものではなかったであろう。清浄であるべきこの高天原でさえしだいに体主霊従的に濁りつつあるこの頃である。何とか美しく立て直さねはならぬ天地の経綸の重責がかかってご自分にある。否々、それよりも現実に降りかかる悩みで今は胸がいっぱいのはず。弟君スサノオノ命の度はずれたいたずらに対する神々の訴えが日とともに激しくなってくるのだ。

 父大神に捨てられ地上を追放されて、高天原へいとま乞いにやってきたというこの暴れ者の弟の心を何ともはかりかねた。いったんは雄々しく戦いの準備までしながら、あの安河原でのみたま調べの誓約以来、ひどく気弱くなって弟の罪さえ裁けずにいる。そのとき、御殿の屋根がこわされて、その穴から、何やら大きな火のかたまりのようなものがドドドッと落ちてきた。逃げまどう織女たちの絶叫。倒れ伏し死ぬ織女。何とその天井の穴からのぞき見ているのは、わが弟スサノオノ命の憎さげな髭面ではないか。

 あまりのことに思慮を失ったアマテラス大神は、御殿を走り出たまま、天の岩屋戸に閉じこもってしまう。これによって高天原は常闇の世となりはて、荒ぶる神々はここぞと騒ぎまわり、禍(わざわい)という禍がことごとに起こった。

 それからは筆先の指摘する謀略的岩戸開きである。長鳴き鳥を鳴かしめて、日の出を思わせ、アメノウズメノ命のヌードダンスで神々に笑いどよませる。自分より立派な神があらわれたのかと疑ったアマテラス大神が戸を細めに開け、鏡にうつる自分の光を見て驚く。そこをアマノタヂカラオノ命の怪腕で引出してしまう。まるでアマテラス大神の日頃のお疑い深さ、嫉妬深さをみこして万神謀議の末、まんまとわなにかけ成功しましたといった図ではないか。

 これが高夫原随一の知恵者オモイカネノ神の出ししぼった知恵だというのか。何と幼推な… そう思ったとき、逆にふっと胸のあたたまる心地がした。この物質世界でこそ、人間は有史以来悪知恵を研ぎすまきねばならなかった。この程度の策略にころっとだまさて出てこられるアマテラス大神のいっそ愛らしい無垢のお心…。

  天の岩戸開き以前の高天原はそうしたうそやいつありも知らぬ清い世界…とすれば、この天界に芽生えた邪気のはじまりは何か。

 一方的に被害者とされている天界の司神アマテラス大神には全く非はなかったろうか。もし私が検事側に立つならば、むしろ姉君のアマテラス大神をこそ三つの罪で告発することを許していただきたい。

 〔第一の罪〕お別れの挨拶がしたいという弟神の心を察せず、ただ真向から高天原を奪りに来たと疑って待ちかまえた罪。天界と地上は合せ鏡というではないか。手のつけられぬ地上の乱れの原因を知り、その立て直しの方策を考えるのに一度高天原を見たかった。父神にはいえなかったもろもろもろの悩みや相談など姉神には打ちあけたかった・・・そう思いやることだってできたはずであろうに。

 今日でも疑いが、大は国際間から小は家庭の中まで、どれほど多くの紛争の種をまいていることか。それを高天原の主宰神であられるアマテラス大神がまず犯されたことは重大である。

 

〔第二の罪〕その疑いの解決をまっさきに武力に求めようとした罪である。この過失は今日なお尾をひいている。二度にわたる世界大戦や幾多の愚かな戦争のくり返しは、人類をどれほど不幸におとしいれてきたことか。さいわいスサノオノ命の言霊と誓約によって危うく天界と地上軍の武力衝突こそ避けられたが--。

 

〔第三の罪〕これも見方によってはより重罪である。誓約によって弟神の潔白が明らになったとき、姉神は激しく後悔されたであろう。だからスサノオノ命の部下たちが乱暴しても、今度はしきりに弁護しようとする。「神殿に糞をしたといって騒ぐけれど、あれはきっと酒に酔って何か吐き散らしたまでのことでしょう。田の畦や溝をこわしたというのも耕せば田となる土地をいらぬ畦や溝しておくのは惜しいと思ってのことでしょう。いとしいわが弟のことですから…」 厳然として天地の律法を守らねはならぬ高天原の司神が、天則違反を犯す天下の大罪人(部下の罪は主人の罪という意味で)をいとしい弟君というだけでかばってはならなかった。それでは天地の神々へのしめしもつかず律法は内側から崩れていこう。だからこそ父神イザナギノ大神は涙をのんで貴の子を地の世界から追放されたというのに。

 スサノオノ命は姉神が自分をかばえばかばうほど苦しまれたであろう。姉神をその重大な過失から救い、部下たちの天つ罪をつぐなって、しかも傷ついた律法の尊厳を守る手だては

・・・かりにスサノオノ命が「部下の罪は私の罪です。姉上、どうか私を罰してださい」とまともに申し出ても理性を失っていられる女神は聞かれまい。スサノオノ命のとるべき道はただ一つ。ともかく姉ぎみの面前でのっぴきならぬお怒りを買うため、あえて悪どい残虐な行為に出る。万神の怒りをスサノオノ命ただ一神にふりかえて処断させるように仕向ける

・・・それしかないではないか。ところがアマテラス大神は、しょせんは女神。スサノオノ命の深い志を察して罰を与えるゆとりすらなく、司神としての天職も誇りも投げすてて岩戸の内へ逃げ入ってしまわれたのだ。王仁三郎がなぜスサノオノ命の第一・第二の罪は弁護しながら、かんじんの岩戸ごもりの原因である第三の罪にはふれなかったのか。ふれようとすれば非をアマテラス大神に向けねばならない。皇室の祖神である日の大神に。だから王仁三郎は沈黙を守ったのではなかったか。

 みずから悪神の仮面をかぶり、千座の置戸を負って怒れる神々にひげをむしられ手足の爪まで抜かれて高天原から追放されるスサノオノ命。その想像は国祖国常立命の御退隠とかさなって何がまことの善なのか悪なのかを、この世の根元にまで逆のぼって問い直したくなる。姉神の罪を含めた万神と、地上人類の罪のあがない主として甘んじて処刑を受けられた男らしく崇高なスサノオノ命こそ、筆先の明かす救世主・みろくの大神にふさわしい御神格ではないであろうか。

 

機(はた)の仕組ということ

  『古事記』ではアマテラス大神が忌服屋で機を織られる様子がうかがえるが、大本でも早くから"機の仕組″ということが筆先で説かれている。

「にしきの機(はた)の下ごしらえであるからよほどむつかしきぞよ。このなかにおりよると、魂がみがけるぞよ。みがけるほどこのなかは静かになるぞよ。機の仕組であるから、機が織れてしまうまでは、なにかそこらが騒がしいぞよ。にしきの機であるからそう早うは織れんなれど、そろうて魂がみがけたら、機はぬしがでに織れていくぞよ。」(明治三十三年旧八月四日)

 にしきの機とは、綾錦の布を織ることを指すが、すぼらしいみろくの世に至る道程をさまざまに織り成していく人々の苦節を色糸にたとえ象徴的に言ったものであろう。機は縦糸と緯糸で織り成されるが、出口なおと出口王仁三郎のふたつの魂の要素ともいうべきものが、縦と緑の関係になる。出口なお(縦糸) 出口王仁三郎(横糸).

艮の金神    坤の金神

変性男子    変性女子

厳の御霊    瑞の御霊