対立しぶつかり合い、からみ合う激しい二つの個性や生きざまの鮮やかな対照が、いつのまにやらそのまま組み込まれて大本の教示を成していく。なおにかかる神の教えが、火と水・男子と女子・父と母・天と地・小乗と大乗・ナショナルとインタ-ナショナルというようにまったく相反しながら、機の縦糸・練糸となって織りなされてゆくのである。

「古き世の根本のみろくさまの教えをいたさなならん世がまいりきて、にしきの機のたとえにいたすのは、変性男子(なお)のお役は経のお役で、初発からいつになりてもちっともちがわせることのできんつらい御用であるぞよ。変性女子(王仁三郎)は機の横の御用であるから、さとくが落ちたり、糸がきれたり、いろいろと梭(ひ)のかげんがちごうたりいたして、何かのことがここまで来るのには人民では見当のとれん経綸がいたしてあるから、機織る人が織りもってどんな模様がでけておるかわからん経綸であるから、出来あがりてしまわんとまことの経綸がわからんからみなご苦労であるぞよ。」(大正五年旧九月五日)

 縦横の役目の相違がはっきり示されている。縦糸は、いったんピンと張り終わると後はびくとも動くことはできぬ。それが縦糸の役目である。"大本神話″にもあるであろう国祖クニトコタチノ大神の至正・至道・至厳なやり方に対し不満の神々が天の大神に直訴する。

 天の大神もついに制止しきれず、「もう少し緩和的神政をするよう」説得したが、国祖は聞き入れなかった。つまりそこで聞き入れてゆるめてしまったら、機の末はどうなるか。乱れ切るのが目に見える。たとえ天の大神のお言葉であろうともつらぬく…これが機の仕組みのつらい役目なのだ。 

 緯糸は張りつめた縦糸の間をくぐり抜ける度に筬(おさ)で打たれながら、さとくが落ちたり、糸が切れたり、梭(ひ)のかげんが違ったりしつつ錦の機の完成まで動き続ける。これもまたつらいお役。ともかく、縦と緯というのは、すべての物事の成り立ちの要素を簡略化したギリギリのところの呼び方であろう。

 いかなる文化も縦と緯との交じり合い以外にないということができよう。「縦横無尽の活躍」というのも自由自在な働きの根底が縦と経で構成されていることを示している。この縦と緯とをたくみに織り上げるのが "大本″ 的表現をすれば神業であり、人間は一筋の糸として参加するためこの世に生まれてきたわけである。

 だからこの地球上で人間が創造している文化(政治・経済も含めて)は、人間がそれぞれ勝手にやっているようでいて実は織られているのだ。短い糸をつなぎ、より合わせて、いつか時代の流れの色模様が染め上げられてゆく。縦と緯とがうまくととのって、見事な布が織られていくことをまつりあうという。

 政治を日本古来の言葉ではまつりごとと称した。天と地、神と人、霊と体との均り合いが真にうまくとれることが政治の理想であろうが、神に対するまつりも同じである。その意味からみれば現今の文化のいっさいは均り合いを欠いており、人間の我欲だけが一方的に突出してゆがんでしまっていはしないか。

 綾部の大本の機は日本の、世界のひな型となるべき錦を織らねばならぬという。「このなかにおりよると、魂がみがけるぞよ」と筆先にあるのは、少しのゆがみも許されぬ縦糸はもちろん、我がなければならず、あってはならずで、打たれ打たれて織られていく緯糸の過程の苦しさゆえに魂に磨きがかかるのであろう。王仁三郎も歌っている。

機の緯 織る身魂こそ苦しけれ 一つ通せば 三つも打たれつ

「機が織れてしまうまでは、なにかそこらが騒々しいぞよ」とあるのは、第一次、第二次の世界大戦、そして現今の経済や資源の戦争を騒々しいと暗愉しているのであろう。機が織れてしまうまでとは、みろくの世、松の世に至るまでは、という意味でもあろう。

「そろうて魂がみがけたら機はぬしがでに織れていくぞよ」 人間各人の魂がみにくい我欲を捨て、織り手の心のままに澄んだものとなったなら錦の機は自然に完成していくと筆先はくり返して宣言する。 

 

浅野和三郎の役割

 

丹波の一教団に過ぎなかった大本が、たちまち全国的な教団へと発展をとげるためには浅野和三郎のカがあずかって大きい。浅野和三郎は東京帝国大学英文科在学中から小泉八雲に学んで文学を志し、明治三十三年卒業とともに横須賀海軍機関学校の英語教官をつとめて十数年、かたわら英訳書も幾冊か出して英文学者としての業績を示し、また十年近い歳月をかけて打ち込んだ英和辞書の編第も終わりに近づいていた。

 美しく賢い妻多慶(たが)との間に三人の男の子も恵まれて、順風満帆の人生航路はようやく四十の坂をこしたところである。ところが大正四年春、三男の原因不明の難病をある女行者に治されて以来、学問や理知では割り切れぬ、考えたこともなかった世界があるのを知った。その年の暮れ、大本宣教の旅の途中の海軍予備機関中佐 飯森正芳(まさよし)と横須賀で出会い、同行の出口なおの三女福島ひさを紹介されてからは、丹波綾部の大本に対する興味がどうしようもなくかきたてられていた。

 彼が大本を知り、やがて一家をあげて綾部へ移り住むまでの出来事をくわしく述べた浅野和三郎の著『出盧(しゅつろ)』から要点のみ抜こう。

 浅野が初めて大本を訪れたのは大正五年四月四日午後四時過ぎである。竜門館の王仁三郎の書斎・臥竜亭で、真鍮(しんちゅう)の大杉の火鉢を間に初対面の挨拶をする。

「やあ、よう来やはった。こっちへおいでなはれ」

荒い横縞のどてらに古色蒼然とした兵児(へこ)帯を巻きつけ、黒い豊かな長髪を櫛の目も入れずに背後へ散らし、顔半分をうめる髭の中からきょろんとした目で王仁三郎は客を見る。

 挨拶はそれですんだつもりらしく敷島に火をつけて、くゆらし始めた。どう考えても浅野のもつ宗教家の概念とはなはだしく違う。落ちつかぬまま問わず語りに浅野は来意を告げ、これまでの経緯を述べた。ついでに胸にわだかまる疑問をつぎつぎと放つ。

 霊魂の実在・神の経綸・神諭の真意・その他、誰でもが持つような疑問…それに対する王仁三郎の返答ぶりはひょうひょうとしていて掴まえどころがなく、理知と常識と学問で固めた浅野には疑問の大部分が依然として疑問のままに残った。   王仁三郎は浅野を小舟にのせて金竜海をみずから棹さしてめぐった。夕刻になって宿へ引き揚げようとすると、食事を出される。

「大本にはたいしたご馳走はありませんで」と言うとおり、膳の上にのっているのは二切れの沢庵と焼きするめ、ポロポロの冷たい麦飯のみ。やけに固いするめだった。王仁三郎はと見ると平然と飯をかきこんでいる。ついにあきらめて、二切れの沢庵の塩味を頼りに、湯漬けにしてのどに流しこんだ。食事が終わると"神島開き″の章で述べたように王仁三郎は浅野を残しておいて畝傍山と橿原神宮参拝に綾部を出発する。

 その後は「何鹿(いかるが)一の美女」と王仁三郎がのろけたすみが現われて浅野の相手をする。すみの天真爛漫な人柄、一点の虚飾もない話しぶりに魅きこまれ、ついにすすめられるまま大本のごつごつの重い蒲団にくるまって寝ることになる。

  翌朝、浅野は教祖なおと対面する。このときの感動を『出盧』はこう述べている。「その八十一の老躯(ろうく)をつつめるものは、洗ひざらしの極めて粗末な綿服であった。が、その綿服のうちからどことも知れず放散する一脈の霊光! その雪をあざむける銀髪、その潤ひの多い、しかし力ある眼光、針もて刺せば玉漿やほとばしらんとするその清き肌の匂い…自分は生来初めて現実の穢土に清らかさ、麗はしさ、気高さの権化ともいひつべき肉体を見た、と思うた。生来未だかつて心の底の真に恭敬の念慮をもって首を下げたことの経験のない自分が、大本教祖により初めて<敬服>という言葉の真味を体験せしめられた」

 二時過ぎの汽車で浅野は綾部を発った。離れるに従って、教祖出口なおに会って点ぜられた胸の火は烈々と燃えしきってくる。八十余年の犠牲の生活で罪と汚れの痕跡すらとどめぬまでに洗い清められた清浄無垢の神人を、たしかにこの目で見た。

…あんな田舎の無学なお婆さんの決心覚悟とくらべて、自分はこれまで何という汚らしい、さもしい、あさはかなことを考えていたのか。金銭に縛られ、名誉にとらわれ生命を惜しみ、地位に恋着する。これでは人間としてどこに取柄がある。まてまて、既往は悔んでも仕方がない。ひとつ心を入れ替えて大本教祖の驥尾にふして人類のために一肌ぬいでみょうかしら。

 横須賀の自宅に帰ると妻が待ちかねたように綾部の様子を聞く。「うん、綾部は、なかなかするめの固い所だ」と思わず発した第一声に、われながらニンマリする。浅野の大本に対する興味は燃えるばかり、かといって勤めの身、夏休みまで綾部に行く自由はない。思いあまってついに一策を案じた。王仁三郎をなんとか横須賀に迎えよう。妻を使者として綾部に送ろう。

 妻・多慶が王仁三郎と同道、横須賀へ帰ってきたのは四月二十九日であった。浅野家の離れの書斎で、参綾以来ためにためた質問の矢をつぎつぎに放つ。王仁三郎の応答は実に適確であった。鷲くばかり該博で、深遠で、つねに第一義的で、びしりと肺腑を突く。綾部で交わした不得要領の問答とくらべなぜこうも違うのだろう。そのうち、浅野はその理由を悟った。初めてのときは時間の不足ばかりか自分の質問があまりに貧弱であり、愚劣であり、幼稚であったので、王仁三郎の真価が発揮されなかった。撞木(しゅもく)が悪いので鐘が鳴らなかったのだ。王仁三郎の大釣鐘はつねに叩く者の力しだいで音色も変わる。水が方円の器に従って形を変えるように、百姓と話す場合はたちまち百姓と変じ、学者と話す場合は学者と化す。相手が何者であろうが、「王仁三郎という人は自分より少し偉い」ぐらいに思わせる。教祖・出口なおの人格の高潔さとすみの天真爛漫さに心打たれた浅野はあらためて王仁三郎の偉大さの一端にふれ、 「こりゃ途方もない化物だ」と心ひそかに舌を巻いた。

 王仁三郎は五月八日まで横須賀に滞在し、海軍機関学校長木佐木(きさき)少将夫妻ほか、海軍将校や海軍文官らを相手に四方から振りかかる質問を明快にさばいていった。あげくに知識だけではなく、霊魂そのものを実験体得する法をとせまられ鎮魂帰神法の実習にかかった。

 人間には頭脳による支配以外に、もう一つ腹中を根城としての、まったく別個に独立した働きが存在し得ることを彼らもこの実習によって認めぬわけにはいかなかった。王仁三郎は、浅野に審神者としての資格を与え、鎮魂帰神の種を蒔いたなりで去った。浅野は手さぐりで、惨憤たる苦行にたち向かう。その間の喜びやら失敗、一方で嘲笑悪罵から忠言など、ことこまかに記録する。

 海軍機関学校教官の宮沢理学士は天言通、浅野の妻は鮮やかに天眼通が開けるはか、それぞれに霊的体験をかさねて神霊世界に踏み入るのであるが、脇道にそれるので省略する。興味のあるかたは拙著『大地の母』を参照されたい。

 待ちこがれた夏休みがやってきて、浅野は七月三十日より約一ヵ月綾部に滞在、直筆の筆先と取り組んだ。『大本神諭』は謎の集合体であった。浅く解くも深く読み取るも対する者の器量次第。日清・日露・欧州大戦・これに引き続く世界的大動乱、地震・雷・洪水・火の雨の襲来・飢饉・疫病・綾部が神都・日本の世界統一・三十年で世の切り替えなど。まず浅野の目を奪ったのがこれらの一連の予言警告であった。気の弱い者なら、これだけでノイローゼになりかねない。ところがどこをどう探してみても、それがいつ起こるか、いっさい明示されていないではないか。

 「出口に世界のことを、先にこういうことであると、気(け)もないうちに書かしておくなり・・・」とあるように、事件が現実に起こってから筆先を読むとあっと気がつく。明治二十五年から大正五年現在までの二十四年間をふり返ってみれば、筆先の予言と世界の現実はぴったり合致するではないか。

 こりゃ大変だ。筆先に限って時期を明示してないのが偽神の偽予言ではない証拠なのだ。神人界の大改造を背負って立たれる神さまが自縄自縛的にその経綸・方法・順序等を告白されるはずがあろうか。これしきの予言ですら、避け得る限りは避けたいところを天下の人心のあまりの聞き分けのなさにやむを得ぬ警告となったに違いない。

 筆先一流の「ぞよ」で結んだ断定的教訓が頭に惨み入るには、それでもかなりの抵抗があった。学問をした者の常としてことごとに疑問がおこり、批判がはさまる。

… なにほど智恵や学がありても、人民ではわからんことであるぞよ。このしぐみわかりてはならず、わからねはならず--さっぱり学や智恵を捨ててしもうてうまれ赤子の心にたちかえらんと見当がとれんむつかしいしぐみであるぞよ。いままでの腹のなかのごもく(ごみ)をさっぱり放り出してしまわんと実地まことはわかりかけがいたさんぞよ…

 冗談じゃない、学問や知恵を捨ていとはずいぶん偏狭な野蛮神じゃないか。

… 外国はけものの世、強いものがちの悪魔ばかりの世であるぞよ。…

こうなると維新以来、欧米を先進国と崇めて万事の理想を他に求め列国の仲間入りに腐心している現代人として、ついていける感覚ではなかった。ことに英文学者たる自負を傷つけられておもしろくない。しゃくにさわって筆先を投げ出したまま、ごろりと横になる。そのうち、横須賀での鎮魂帰神の実習から得た物質世界の深奥に厳存する神霊世界に思いが至った。

 もし内なる霊魂を見ず、外側しか信じぬ物質主義を"外国″と解釈するなら、まさにけものの世である。紫の袈裟、金ピカの大礼服、爵位官等だの、紅白粉(べにおしろい)だのがありがたくて、内側の霊性はどうでもよいのは外国ばかりか日本も変わらぬ。それをまざまざと浮き出して見せるのは天地間にただ一つの照魔鏡があるばかりだ。それが天授の神法・鎮魂帰神ではないか。

 夏休みも残り少なになった頃、浅野は決断する。後半生をして大本と運命を共にしよう。大本を知ってから約八カ月、脇目もふらず突き進んで、教えの門に辿りついた。困縁の身魂は大本に出会わない先から仕度をさせられており、さあとなったら不可抗力で丹波の山奥へ連れてこられてしまう。そんな神の綱に身をまかせる思いであった。

 帰宅早々浅野は海軍機関学校に辞職願いを出している。一身の利害得失を心配してその非常識さを攻める一族も彼の決意をまげることはできなかった。校長・教頭と熟談のすえ学年の終わりまで勤め、十二月から自由の身になることに決定した。

 十一月には浅野の後任が決まった。七月に東京帝大英文科を卒業したばかりの後輩芥川龍之介であった。月俸は六十円。芥川はこの年二月、第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表して夏目軟石の絶賛を受け、新進作家としての地位を確立していた。浅野は学年の終わりまで勤め上げ、後事を芥川に託して十七年間の横須賀の暮らしに終止符を打った。

 浅野一家が綾部に到着したのは十二月十一日早朝。着くや、引越しの雑事は妻に任せて、大本の浅野としての一刻の猶予もない活躍が始まる。王仁三郎の依頼で、大本の機関誌旬刊『敷島新報』は月刊『神霊界』と改題され、頁教も増えて大正六年一月一日、正月号から発刊された。巻頭には主筆編集長・浅野和三郎の「発刊の辞」が掲載されている。

 

晩年の秋山真之

 

 三千世界の立替え立直しの神約は大本に生命を吹きこみ、他教団との違いを際立たせる。これを忘れた大本ならば単なる一宗派に堕してしまい存在意義はうすれてしまう。しかしこの大予言はいわば両刃の剣であって、時として鋭く大本自身を傷つけもした。

 九十年近い大本の流れを振り返るとき、慢心や筆先の取違いからくる役員信徒の独走を制御しきれなかった苦い錯誤の歴史につきあたる。過去のあやまちを再びくり返さぬためにも、予言を独善的に解釈し盲信することの愚をくり返さぬためにも、あえてその恥部を書かねばならぬ。

 秋山真之海軍少将といえば神算鬼謀、天下無比とうたわれる海軍の名参謀だ。真之の兄であり日本騎兵の育ての親でもある秋山好古(よしふる)陸軍中将とともに、日清・日露の戦いで勇名を馳せた英雄である。

「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす」

 例の日本海海戦における有名な電文であるが、三笠艦上の若手参謀がここまで起案すると、秋山はその末尾にさらさらとつけ加える。

「本日(ほんひ)天気晴朗なれど波高し」画竜点晴のこの短い一句によって、 「戦局われに利あり」の判断を秋山は伝える。海峡に濃霧がかかり敵影を見逃すことを大本営は恐れていた。

  「天気晴朗なれど」で先ずその杞憂を打ち消し「波高し」では戦艦の乾舷(かんげん)が低まって、遠征途中で訓練不足のロシア艦隊の不利を語る。.また「本日」を「ほんひ」と特殊な発音に直したのも秋山の発案で、聞き違いを少なくするための海軍の慣用句となった。

「舷々相摩(ま)す」という流行語も秋山の書いた戦況報告の一句だ。端的で格調高い彼の文章は秋山文学と呼ばれて後世に残った。日露戦争終結のとき東郷司令長官の名による「連合艦隊解散の辞」は、日本海軍の経典的役割をはたし、ルーズベルト米大統領も英訳して全アメリカ軍隊に配布したがこれも秋山の起草になる。

 これほどの俊才英傑が晩年"大本"にかかわったばかりに生涯の汚点を残すはめとなった。浅野和三郎の回顧録『出盧』につづく 『冬寵(ふゆごもり)』と大本側の資料を基礎に重い筆をとろう。

 秋山真之を引き寄せたのは『この道』という大本の一小冊子であった。その内容の神霊問題が彼の興味を激しくそそった。なぜならば秋山には二度にわたる重大な霊的体験があったからだ。

  日露戦争の緒戦において日本の連合艦隊はロシア艦隊に大打撃を与えたが、それでもウラジオストック艦隊は健在であり、津軽海峡から日本海沿岸を脅かして砲撃を続けた。撃滅しようにも相手は出没自在、敵影すら捕捉できぬ。国民感情は沸騰し敵艦撃滅の任にあたる上村艦隊に非難の声さえ浴びせ始めた。

 日本海軍の主力東郷艦隊は旅順封鎖の任にあたって動けず、敵艦隊のほしいままの跳梁(ちょうりょう)を無線で受けつつ歯がみするばかり。彼らは日本海を通過してそのままウラジオへ引き揚げるか、または日本の東海岸に進み津軽海峡か宗谷海峡を抜けて帰航するかである。

 さて、上村艦隊をいずれに向かわせるか… 東郷艦隊の参謀秋山中佐(当時)は二者択一の決断に迫られていた。この時点での決断は日露の勝敗の別れ道ともなろう。夜もすがら、考えに考え悩みぬいて、秋山は力尽きふとまどろんだ。 瞬間、閉じたはずの瞼の裏が明るく広がりだし青い海原の中に、日本東海岸の全景が浮かび上がった。向こうの果てが津軽海峡と目をこらすと、三つの黒点が波を蹴立てて北進する。まさしくウラジオ艦隊のロシア、ルーリック、グロムポイではないか。

 敵の航路が秋山の眼裡(がんり)に焼きついたとたん[何もかもかき消えて、ハッと秋山は目を開いた。夢か幻か…否。魂のおののくような感動のうちに秋山は悟った。…-神助だ、神はおわしますのだ。Lかし彼は「敵艦の進路を霊夢で見せられた」と卒直に打ちあけかねてしまった。そんなことを言えば冷笑を買うばかりであろう。理性による判断として秋山は「ウラジオ艦隊が東海岸から津軽へ抜けるものと推定されるから、日本海を先まわりして津軽で迎撃すべき」と進言した。惜しいかな軍令部はこれを採用せず、上村艦隊をして太平洋に出動させた。このため敵艦隊はゆうゆう津軽海峡を通過しウラジオストックに入ってしまう。

 それでも神助は再び秋山に下るのである。日本海海戦では、ウラジオ艦隊の前回よりいっそう日本の危機感は深まっていた。ロシアは強力なバルチック艦隊を第二艦隊として日本に送り、制海権を奪おうと意図した。迎え撃つ日本艦隊は根拠地を鎮海湾に置き敵の接近を待ちかまえるが、ここでも敵の進路の想定が重大となる。全艦の首脳部が旗艦"三笠″に集まり幾度となく密議をこらした。前回の秋山の進言は容れられなかったが、実に的を射ぬいていたのだから今度の作戦はかかって秋山の頭脳に集中する。

 不眠の幾夜か、その責任の重さに疲れ果て士官室にのがれて安楽椅子に身を投げた。五月二十四日の夜半である。気づくと、つぶった瞼の裏が明るくなり、深く果てしない海のうねりが浮かんできた。今度は対馬海峡だった。その全景の中に探るまでもなくバルチック艦隊がやってくるのが映った。その二列の陣容、艦数までつかんで、しめたっと思う瞬間、われに返る。

 頭は冴えかえっていた。あちらの出方が分かれば作戦はひらめく。七段構えの戦法ができ上がって今やおそしと敵を待つばかりとなった。

 五月二十七日の夜明け、ついに敵を肉眼に見て秋山は腹の底から勝利を確信した。敵の姿形が三日前に霊視したのと寸分の違いもなかった。ただ時間だけが予想と逆になった。海峡通過が昼となったので、作戦は昼夜を入れかえ第一段の艦隊決戦ですでに大勢を決した。現実には第三段作戦までで終わる大勝利となったが、戦報の筆を執るや、まず「天佑と神助によりて-・・・」と書き出さねばすまぬ秋山であった。

 大正五年当時、秋山は軍艦"吾妻″ にあって水雷戦隊の司令官をしていた。

 "吾妻″ が舞鶴港に入港した機会に念願の大本訪問となったもの。この日は浅野が綾部へ移住して四日目の大正五年十二月十四日午後である。『神霊界』大正六年一月号の「大本通信」には「十二月中旬から月末にかけて舞鶴から来訪する海軍将校がほとんど連日に及んだ。真先が海軍少将秋山真之氏で出口・浅野両氏とほとんど半日にわたりて懇談した」とある。

 浅野と秋山はともに海軍部内にいながら初対面であったが、相手の名声だけは知り合っていた。浅野は秋山の第一印象を「高い湾曲した鼻、やや曲がった口元、鋭いしかし快活な眼光、全体に引きしまった風貌動作、だれが見ても只者でないだけはすぐ判かる。海軍士官気質という一種独得の型にははまっているが、しかしどこともなくその型を超越した秋山一流の特色も現われていて、妙に人を魅きつけるところがあった。たしかに僥倖(ぎょうこう)で空名を馳せている人ではないと首肯された…」と書いている。

 秋山は前述の二度の霊的体験を打ちあけ、王仁三郎のほうは沓島での教祖の十日間の戦勝祈願と五月二十三日夜の竜宮の乙姫の神示を語り聞かせる。例のバルチック艦隊の進路をまざまざと霊視させられたのがその明け方であったことを思い合わせて至誠通神の確信をいっそう深める秋山であった。

 神霊問題についての核心を突いた質問に、王仁三郎は無駄なく短く答える。秋山は片はしからそれを呑んでいく。浅野は陶然と両者の問答に聞き惚れた。秋山四十九歳、王仁三郎四十六歳、浅野四十三歳、それぞれ三つ違いであと十日余で元旦を迎えれば数え一歳を加える。 

 秋山の参綾が発火点になり、大正五年十二月中旬から”吾妻”の出港の切迫した大正六年一月七日まで、大本内部は一時海軍村を形成した。彼らはいずれも元気旺盛な猛者ばかり、大雪もなんのその、大晦日も元日もお構いなくつめかけては霊学や筆先の講釈を聞き、たいてい十一時の終列車で舞鶴へ帰っていく。

 大半の者は希望して王仁三郎や浅野の鎮魂を受けていた。海軍士官の守護霊は概してわけなく発動し、猛烈でそのくせ淡泊だった。奇妙なことに天狗霊が多い。天狗なんて人聞きがわるいと当人が恥ずかしがろうが、おかまいなし。単純明快、審神者に名を問われるや即座に「天狗!」と大音声を張り上げて答えるのだから仕方ない。金竜殿では連日、珍無類の発動がかさなり合って話題にはことかかなかった。

 浅野の綾部入りによって大本は社会的に大きく前進したが、同時に内部も変化した。たとえば鎮魂帰神は、主として古い役員の四方平蔵が病人などに頼まれてやむを得ずする程度であった。教祖なおは低級霊のどたばた騒ぎをことに嫌ったし、大本に鎮魂帰神術を持ちこんだ王仁三郎にしてもその弊害面を心配して押えていた。しかし審神者を習いたての、その強烈な作用に目をみはる思いの浅野には、押えよというほうが無理であったろう。浅野は書いている。

「鎮魂の目的は、むろん霊魂の存在を証明するなどという安っぽいものではない。遊離放散しやすい霊魂を身体の中府に招集統一して、顕幽一致、神人合一の妙境に到達せしめ、宇宙の秘奥を探り、天地の大道を明かにするにあるのだが、この修行の第一歩に於て、副産物的に霊魂の存在ぐらいは分かってしまう。理屈で十年かかっても分からぬことが僅々一日か二日の実験で体得せしめ得る。一時も早く分からせようという誠意がこちらにあれば、つい億劫でも鎮魂ということになる。

 よくよく早いのになると一遍で憑依霊が発動する。当人の意識が明瞭で、ぜんぜん覚醒状態にあることだから文句はない。審神者のほうで説明するまでもなく、たちまち守護神説を承認する。理性が発達し常識があればあるほど悟ることも早い。どうしても神霊問題の研究はそこから出発せねはならぬ…」

 たしかに鎮魂帰神術は宣教の有力な手がかりではある。しかしそれを押さえようとする側にもまた充分な理由があるのだ。発動する霊が他愛なく無邪気なうちは確かにてっとり早い改心がのぞめる。しかし、憑依霊の多くは邪神界の低級霊であり、それが高級な正神名を語ってつけ入ってくる。おどしたり予言まがいの法螺を吹く。邪神界にとって何より恐ろしいのは、この住みよい彼らの持つ世をひっくり返してみろくの世界をつくろうという艮の金神の仕組なのだ。

 だからこそ彼らは必死で作戦をねり、わなを仕掛け、スキさえみせれば全力あげて大本の切り崩しに集中する。ねらわれるのは力ある者、大本内外の人士を心服させ得る大物でなければ意味がない。そこで大事なのは、その憑依霊の正体を鋭く判別する審神者の役である。よほど霊界の消息に通じ憑依霊を説得する識見を持ち、時に応じて自在に霊縛をかけ、あるいは断乎として追い払う勇気と霊光が必要なのである。

 むろん審神者自身の心が、一点の私情を交じえず正しく神光に照らされていなければならぬ。さもないと審神者が邪霊に打ち負かされて正神と信じかねない事態が起こる。今日でも憑霊をやたらに発動させて世間の耳目を集めたがる新興宗教があるが、危険このうえない。大正末期に至って王仁三郎は鎮魂帰神術を厳しく禁じており、現在の大本は魂を鎮めるための鎮魂(帰神を除く)だけがおこなわれている。

 秋山真之の再度来綾は大正六年六月十四日、初めてこの地を踏んでからぴったり半年目だ。この春に重い盲腸炎にかかり危篤を報ぜられたが、奇跡的に一命を取り止め数日前に退院したばかり。

「殺せば損だと思われれば神さまが癒して下さるもの」と相変わらずの気焔をあげて秋山は神力の加護への自信を深めていた。綾部での二泊を秋山は寸刻もむだにせず王仁三郎や浅野をつかまえ神霊問題を鋭く追求した。二、三度は浅野の鎮魂を受けたが、手応えは早く霊眼が開けてきた。『神霊界』発表の神諭もむさぼり読んだ。秋山の鋭敏な頭脳には、世界の人心の退廃と日本の危機は分かりすぎるほど分かり、"立て替え立直し"の警告がいっそう身に浸みる。参綾を果たす前に戦略家の秋山らしく何人かの斥候を放って大本の情報は充分仕入れてあっただけに、燃えるとなったらたちまち白熱化する。

「世間の奴なんて仕方がない。早く上流から覚醒してくれんととてもだめだ。さいわい自分はこの方面に便宜がある。これから大いに馬力を出してやらなけりやならん」

と激越な口調で秋山は言った。十六日に綾部を辞去する時には、浅野に「東京へ釆たらぜひ寄ってほしい」と頼んでいる。それから四日めの六月二十一日朝、浅野は篠原国彦海軍大尉、秋岡亀久雄を同行して東京停車場へ下車、四谷信濃町の秋山真之邸に直行した。秋山は大喜びで一行を迎える。秋山邸の奥座敷には伊勢神宮の神棚があり、その棚の一万には稲荷の祠が配ってあった。彼の宗教遍歴の一端を見るようで浅野の胸に不安の影がよぎる。

 秋山はある時期に明照教に凝ったが一年足らずでいやになり、つぎに川面凡児(かわつらぼんじ)(古神道家・古典考究社を主催)に傾倒し、同志を集めて講演会を開いたりしたが、一、二年で熱がさめ、のち池袋の天然社にも出入してみるが長く続かなかった。

「どこへ行ってみても半年か一年たつうちに、自分のほうが偉く思われてきて仕方がない」と秋山は浅野に述懐していた。

「秋山の長所も短所も実にこの一語のうちにあらわれている」と浅野は感じたのだが、この秋山の"我″ こそが、邪神群のつけ入る好餌であったにちがいない。大本の存在と使命を、切迫した立替えの起こる前に日本の要所要所に知らせることが焦層の急だと秋山は作戦を練る。そのために大正六年度前半期の『神霊界』の合本をすでに五、六部用意していた。まず秋山はそれを持って顕官宅を訪問し、浅野ら一行は秋山邸に待機する手はずがととのった。翌二十二日から秋山の行動は開始された。軍服姿の被は、羽織袴(はかま)の香森法学士一人を同乗させ、自動車で邸を出る。二、三時間後に勢いよく帰宅した秋山と香森の報告が、浅野らを驚かせた。

 某政府顕官相手に大本の宣伝に熱中しているうち、とつぜん思いもかけぬ猛烈な予言が秋山の口をついてとび出したというのである。「大正六年六月二十六日夜、東京に大地震が襲来するぞ!」 二十六日とは四日後ではないか。秋山自身、その予言は神からのものと確信しきっていた。事は重大である。浅野はその予言を即座に否定すべきであった。が、理性では自戒しつつも、二度までも日本の危機を救う霊覚を与えられた天下の知将秋山のこと、「もしかしたら・・・-」という迷いが浅野の態度をにぶらせた。

 ともかく鎮魂してその憑霊を調べたうえでという浅野をさえぎり、目前にせまる危機意識に焦れて秋山は次の顕官邸へと飛び出して行く。浅野がようやく秋山を審神したのは翌二十三日である。傲然と正神の名を告げる憑霊を浅野は邪神と見破ったが、時すでにおそしである。地震の噂は刻々広がり、伝え聞いた友人将校たちが駈けつけて彼らをなじる。 秋山は逆に審神者の浅野に不信任の意を叩きつけた。異様な空気が秋山邸にみなぎって息づまるばかりとなった。六月二十四日夜、秋山からの速達で王仁三郎はこの事態を知った。何も知らされていないなおは同じ日へ筆先を出している。「悪の霊魂が善の肉体を道具に使うて、まだまだこの大本を悪く申して出口を引き裂きにくる。筆先に毎度知らしてあるが、誠を貫きてひとつ心になりておりたら、どこからこの大本へ詰めかけて参りても歯節(はぶし)は立たんぞよ。吾ほどの者は無きように思うて慢心をいたすと悪の守護神に悩められて、この大本の教えが逆さまに悪のやり方に見えて大きな間違いができるぞよ」

 二十五、二十六日の両日にかけて王仁三郎は秋山邸に向け電報を十通ばかり矢つぎばやに打つ。

「東京大地震の予言をすぐに取り消し、一時も早く綾部に引き上げよ。返待つ」そのうえ王仁三郎の急使として豊本啓介が東上する。

「いさぎよく予言を撤回して世間に詑びよ」とかさねがさねの王仁三郎の伝言も秋山の耳には入らぬ。しかしこれらの指令を無視して浅野らが二十七日朝まで秋山邸を動かなかったのは、浅野自身もなかば憑霊の言を信じかかっていたのであろうか。

 二十六日の夜の綾部は異常であった。王仁三郎の命によってすべての宮の扉があけ放たれる。役員信者は全員集まり、夜を徹して東の空の無事を祈った。大難を小難に、小難は無難にと誠心を一つに合わせて祈りつづけた。

 この日、数十人の役員信者をのせた船が金竜海でてんぷくしたり、突如として神苑内につむじ風がまき起こったり、霊眼で幽界の混乱状態を見せられる者が続出した。王仁三郎にスサノオノ命がかかって神歌を詠む。

 

常夜ゆく天の岩戸の開くなる 今宵の空の騒がしきかなも

 

もちろん大正六年六月二十六日の夜に東京に大地震など起こっていない。関東大震災が起こるのはその六年後の大正十二年である。

 秋山邸で彼らはその一夜をどう過ごしたか。浅野は「いかにしてもこれ以上、書く気はせぬ」と詳述をさけている。もしこの日東京大地震が起こっていれば、多くの死傷者が出たであろう。阿鼻叫喚を目のあたりに見ることになろう。それを予期しつつ待つ彼らもまったく無事であるという保証はない。それでいながら神の権威の実証のために彼らは何を祈ったか。地震よ起これ、大地よ動いてくれ…ではなかったか。まさにおぞましい宗教的利己というほかはない。

 この一夜を境にして、秋山は急転直下大本教を否定する側にまわり、長い悪罵の手紙を王仁三郎によこしている。浅野は書き示す。

「六月二十六日、東京大地震の予言は大本神諭の教ふる所でもなく、また自分などの入智恵でもなく、ぜんぜん秋山一個の予言であって、大本とぜんぜん無関係である。どうも秋山さんは立派な人ではあったが、あまりに焦りすぎ、あまりに神諭の教訓を無祝しすぎ、あまりに自己の力量を信じ過ぎ、またあまりにいろいろのヤクザ神に関係をつけ過ぎていた。悪霊の乗ずべき隙間はかなりたくさんあった。東京大地震の予言の如きはむろん正神のお告げではなく邪神の妨害運動であった」 やんぬるかな、その当のご本人浅野和三郎がまた秋山と同じ過ちを踏むことになろうとは…。秋山が大本を罵倒しているという噂が綾部に聞こえてくる。が、それも長くは続かなかった。まもなく秋山は盲腸炎を再発し、大正七年一月二十七月より小田原の竹馬の友・山下亀三郎の家で養生するのだが、二月四日午前五時三十五分逝去。平常口誦していた般若心経と教育勅語を交互に誦し、さらに皇室の安泰を祈ること両三回、合掌しつつ永眠したという。

 新聞の伝える趣味の項には「絵画(特に鯉の水彩画)、禅、神道、法華経、人相、古神道 (川面凡児に師事)等を研究」とある。大本が秋山を誤らせたか、秋山が大本を誤まったか…王仁三郎はみずから喪主となって秋山真之を大本霊社に祀り 一代の俊傑の霊を慰めている。 

 

歌に託した神の言葉

 

 『神霊界』大正六年七月号にのせる大本神諭の原稿がさりげなく王仁三郎から編集へ廻ってきた。浅野は手にしたその原稿が震え出すほどの衝撃を受けた。

「今度の戦いで何もかもらちがついて、二、三年の後には天下泰平に世が治まるように申してえらい力みようであるが、そんな心やすいことでこの世の立替えは出来いたさんぞよ。今の大本の中に只の一人も神世になりた折に間に合うものがあるか、取違いにも自惚(うぬぼ)れにも程があるぞよ。まだまだ世界はこれからだんだんに迫りきて、ちょっとも動きのとれんようなことができるのであるから、その覚悟でおらんと後でアフンといたすぞよ。今一度変性女子の身魂を連れ出す土産に世界のことをあらまし書き残しておくから大切にいたして保存しておくがよいぞよ。

明治五十年を真中として前後十年の間が世の立替えの正念場であるぞよ。

    明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるからそれまでは大本の中は辛いぞよ。」(明治三十七年七月十二日)

   筆先は一種の警告書であって、今までに立替えの時期の明示されたものなど一枚もないと浅野は信じていた。このままで世界がすすめば泥海にかえるはかない。そうなってはならぬから神も人民も改心せよと訴えるのが筆先の主旨である以上、人民の改心いかんでは世の終末は回避できよう。ところが、この日露戦争の最中に出された筆先は警告どころか、はっきり時期の指し示された大胆きわまる予言ではないか。     一九一ニ年度は明治四十五年と大正元年にまたがるから、この年を二年と数えるか一年とするかで明治五十年は大正五年とも六年ともとれる。その前後十年なら立替えの初めは大正元年もしくは二年、大本の基礎がようやく固まった頃であり、明治から大正へと移り変わる境目である。立替えの完成は大正十年もしくは十一年。「三十年で世を切り替えるぞよ」の筆先により、大本では三十年を一切として大きな変わり目がおとずれると信じている。

 開教の明治二十五年から三十年目がちょうど明治五十五年。三月三日は立替えの決着であり、五月五日は立直しの完成の日ではあるまいか。世界の現状を挑め回しても筆先の指摘どおりに進行している。

 世をもつ神が悪神であって改心のできぬ国は続々上下にひっくりかえっていくではないか。明治三十六年にすでに宣言してきたが、今また神はくり返す。「王天下は永うは続かぬぞよ。外国にはひどいことが、せんぐりあると申して知らした事が、実地になりてくるぞよ」 

 まさにそのとおり、清国の王天下が覆った.露国のロマノブ王朝は滅び去り、革命は野火のごとく拡がる。目まぐるしく世界の小国は独立する。激動はまだまだ続くであろう。艮の金神の眼光は世界のすみずみまでも見通しなのだ。大地を打つ槌がはずれようともこの立替えの時期だけは間違わぬ

… けれど秋山少将のあの突発的予言で充分以上苦しんだ昨日の今日なのである。いかに浅野といえども今はロをつぐんでこの原稿を印刷にまわすにとどめねはならなかった。それから半年たっても王仁三郎は明治五十五年立替え説について肯定も否定もしていない。たまりかねて浅野がただすと「さあ、そういう考えもできますかなあ。なにしろ神界の経綸やからわしにはわかりませんなあ」ととぼけるだけである。

 それでも浅野は態度のはっきりできぬ王仁三郎の立場を勝手に忖度する。大本の重要人物であり卓越した予言者・王仁三郎がいったんそれを肯定すれば、少なくとも信者間には確言としてまかり通る。否定すればしたで「筆先の予言を信じぬ外国魂」と反王仁三郎派にいっせい攻撃をくうであろう。その浅野の気持ちにこたえるように、王仁三郎は『神霊界』大正六年十二月号・翌七年一月号・二月号誌上に「大本神歌」・「いろは歌」の一連の作を発表した。

 これは神がかりによって王仁三郎が一気に筆を走らせたもので、のち『瑞能神歌』として小冊子にまとめられたが、信者に与えた影響は大きく暗詞する者も多かった。たくさんの飾り言葉や婉曲な言いまわしの中に真綿でくるんだ針のようにチカッチカッと日本と世界の未来の動向を突いている。

 言論弾圧の激しいさなか、政府への迎合にも心を使いつつ、これだけあらわすのも大変な勇気と決断を要したことであろう。 

 

大本神歌(瑞能神歌)

大正六年十二月一日

 

一 東雲(しののめ)の空に輝く天津日の、豊栄昇る神の国、四方に周らす和田の原、外国軍の攻難き、神の造りし細矛(くわしほこ)、千足の国と称えしは、昔の夢と成りにけり。今の世界の国々は、御国に勝りて軍器(つわもの)を、海の底にも大空も、地上地中の撰み無く、備え足らはし間配りつ、やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌(かぐつち)に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて、明治の廿五年より、露の玉散る刃にも、向ひて勝ちを取らせつゝ、猶、外国の襲来を、戒しめ諭し様々と、神の出口の口開き、詔らせ給へど常暗の、心の空の仇曇り、磯吹く風と聞流し、今の今まで馬の耳、風吹く如き人心、アゝ如何にせん戊の、午の春夏秋にかけ、心落ち居ぬ荒浪の、中に漂ふ苦しみは、神ならぬ身の知る由も、なく泣く縋(すが)る神の前、水底潜る仇艦と、御空に轟ろく鳥船の、醜の荒びに悩まされ、皆散り散りに散り惑ふ、木の葉の末ぞ哀れなり。

 

 二 聯合の国の味方と今迄は、成てつくせしカラ国の、悪魔邪神(まがつのかみ)が九分九厘、モウ一厘の瀬戸際に、旗を反すと白露の、其振舞いの非義非道、凡ての計画を狂はせて、勝つ可き戦争の負け始め、永びき渡る西の空、黒雲晴るゝ暇も無く、独り気儘(きまま)の仕放題、印度の海も掠(かす)め取り、茲にも深き経綸(しぐみ)為し。次いて浦塩日本海、我物顔に跳梁し、卜ン/\拍子に乗り出して、神の御国を脅迫し、モウ一と息と鳴戸灘、渦巻き猛る荒浪に、大艦小船残り無く、底の藻屑と亡ぶるも、綾の高天にいと高く、空に聳えし言霊閣(ことたまや)、天火水地と結びたる、五重の殿に駆け登り、力の限り声限り、鳴る言霊の勲功に、醜の鳥船軍艦(いくさぶね)、水底潜る仇艦も、皆夫れぞれに亡び失せ、影をも止めぬ惨状に、曲津軍も慄(おの)のきて、従ひ仕え来(きた)る世を、松と梅との大本に、世界を救ふ艮の、神の稜威(みいづ)ぞ尊とけれ。 

 

三 綾の高天に顕はれし、国常立の大神の、神諭(みことかし)こみ謹みて、厳の御魂と現はれし、教え御親の神勅に、日清間の戦ひは、演劇に譬(たと)えて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年に渡りし世界戦、竜虎相打つ戊の、午の年より本舞台、いよ/\初段と相成れば、西伯利亜(シベリア)線を花道と、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を尽し、工夫を凝らし神国を、併呑せんと寄せ来り、天の鳥船天を蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、茲に二段目幕が開く。三段いよ/\開く時、三千余年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集る大本の、神に仕えし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心を振り起し、厳の雄猛び踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官に、直日の御魂を楯と為し、何の猶予も荒魂、爆裂弾の勇ぎ能(よ)く、神の軍(いくさ)の奇魂、奇しき勲功は言霊の、天照る国の幸魂、言平和す和魂、魂の助けの著るく、轟く御代を松の代の、四十有八の生御魂、言霊閣に鎮まりて、四方の国々天の下、治めて茲に千早振、神代乍らの祭政一致、開き治めて日の本の、現津御神に奉る、常磐の御代ぞ楽しけれ。 

 

四 カラ国の天に漲る叢(むら)雲も、砲烟弾雨も晴渡り、日の出の守護と成るなれば、こよ無き御国の幸なれど、十重に二十重に累なりし、糸のもつれの弥繁く、解る由なき小田巻の、繰り返しつゝ行く程に、東の空にもつれ来て、退くに退れぬ破目と成り、弥よ/\出師(いくさ)と成る時は、五十余億の軍資をば、一年経ぬ束の間に、烟散霧消の大惨事 巨万の生霊土と化し、農工商の国本も、次第/\に衰ろヘて、青菜に塩の其如く、彼方此方に溜息を、吐くづく思案に暮の鐘、進退ここに谷(きわ)まりて、天を拝し地に伏し、狼狽(うろたえ)さわぐ弱虫の、カラの身魂は自から、現はれ狂ふ憐れさよ。然れど日本は千早振、神の守りし常磐国、国の真秀国珍の国、神が表面(おもて)に現れまして、御国を守り給ひつゝ、世界を救ひ玉ヘども、未だ/\心許されぬ、一つの国の御空より、降る雨利加の一時雨(しぐれ)、木枯さえも加はりて、山の尾の上の紅葉も、果敢なく散りて小男鹿の、泣く声四方に竜田山、神のまに/\四ツの尾の、山の麓の竜館、集り居ます神々の、厚き恵みに照り返す、紅の楓葉の、元の姿ぞ目出度けれ。(大正六年十二月一日)

「神霊界」大正七年二月号 

 

 『大本神歌』発表の大正六年前後から、綾部の大本を訪ねる軍人将校の入信者が急速にふえていく。「今まで露国にばかり目を向けていたが、 どうやら本当の敵は米国(雨利加)らしい」と気づいた彼らは、軍部へ意見を具申した。そのため日本の戦争準備は米国を仮想敵国として大きく方向転換したという。今から考えれば、(三)の戊午の年は大正七年(一九一八)、第一次世界大戦終結の年にあたる。第一次大戦は三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景として起こった世界的規模の帝国主義戦争で、大正三年(一九一四)七月に始まる。

「このたびの五年にわたりし世界戦」とはっきり年数を予告したのが終結の前年であることに注目したい。しかしこの大戦の終着駅は始発駅で、さらに世界は本格的な混乱へと始動する。昭和六年の初頭、出口王仁三郎は「本年は西暦一九三一年で<いくさのはじめ>であり、紀元では二五九一年<ジゴクノハジメ>である」と不気味な予告をする。はたしてこの年の九月一八日に満鉄柳条溝で鉄道の爆破事件が勃発し、満州事変へと発展した。 「西比利亜(シベリア)線を花道と-・‥」の予言でシベリア線につながる満鉄が導火線となって、やがては日本対世界の戦争、日米間の戦闘が続くと理解した大本では『瑞能神歌』を再刊した。

 しかし翌七年二月一日、当局の忌諱にふれ発売禁止になっている。ある人が「二段目について省略されている理由」を質問すると、王仁三郎は「二段目か。うーむむごたらしゅうて書けるかい。これ以上書いたら首があぶない。お前ら、『いろは歌』と合わせてよう判断せい」と答えている。

 ともかく、二段目は満州事変以後から今次の大戦までの、三段目がそれ以後のかなり長期にあたる予言と考えられる。 (四)の「山の尾の上の…」は現人神の座からすべりおり、人間宣言ののち天皇家安泰のもとの姿に至る天皇の身の上の激変を暗示したのであろうか。 古めかしい掛け詞や縁語で真意をぼかした苦心の跡がうかがえる。

 大正初期、すでに日中戦争から日米戦争への大筋、どたん場での露国参戦、日本帝国の滅亡、天皇家の運命など三十年先をこうまで見通して、大胆にも活字化する。今の若い人たちには理解しにくいかも知れぬが、天皇制絶対の帝国憲法下においてこれらの示唆がどんなに危険なことか。詩の形式を借り、古典的な言いまわしで表現してもなお読めば見当がとれるのだ。投獄は覚悟しなければならなかった。 

 

いろは歌(原著は一部のみ引用 ここでは全文引用)〔旧〕明治三十六年九月十日小松林命作

 

○いまは斯世の、落ぶれものよ。人に笑はれ、罵しられて、誠の道を辿りつゝ。末にや夜光の、玉を得る。

Oろこく斗りか亜米利加迄が、末に日本を奪る企画。金と便利に任しつゝ。

Oはやく勝負を極めん事にや、枕を高く休めない。神政成就遂ぐるまで。

Oにしに亜米利加、北には露西亜、前と後に敵ひかえ、四方海なる日本国。

Oほくそ笑ひを、為しつゝ聞きし、神の教えの現はれて、今じや頭が上らない。

Oべんくだらりと、談判延ばし、深い巧みをする夷国、太平洋のまん中に。

Oとくを貰うもまた落すのも、心次第の大本ぞ。天の岩戸の御戸開らき。

Oちしん雷鳴。火の雨降らし、人の心を戒しめる、天地の神の御経綸。

Oりくつ斗りを、エラソウに言ふて、腹に誠の無いものは、今の世界の流行物。

Oぬくいふところ八髭生やし、神も仏も要るものか、金が神じやと鰌鯰、一寸先きは泥の暗み。

Oるすじや留守じやと、何時来て見ても、奥に主人は居る癖に、不思議と門に立留り、能くく思案をして見れば、何時も嘘つくこの家に、神が御不在といふ事か。

Oをにも十八番茶も出花、時が過ぎたら間に合はぬ。世界の立替あるまでに、身魂研いて置くが良い、後の改心間に合はぬ。

Oわしは備前の岡山育ち、米の生る木は未だ知らぬ。綾部に生れた人でさえ、世の大本を未だ知らぬ・燈台下は真の暗。

Oかえせ戻せと扇を揚げて、招くは熊谷須磨の浦、モ一度斯世を持たんとて、呼べど招けど白波の、おきの毒でも、此度の二度目の世界は、返やしやせぬ。

鬼門の金神在る限り、世に出て居れた守護神、早く心を入れ直し変性男子に従ひて、今度の御役に立つが宜い。

○よ言どころか確言ばかり、一分一厘違がやせぬ。誠の心で開くなれば、ヒヤリ/\と汗が出る。何程邪見な身魂でも、改心せずには居られない。皇大神の御神諭。

Oたすけ玉はれ世界の人に、如何なる罪の在りとても、暗夜の如き人民の、代りと天地ヘ御詫して、朝な夕なに変りなく、出口の守の御祈念は、世界の為と国の為。

Oれん花経でも南無阿弥陀でも、今度の事には間に合は繊。木魚をどれだけたゝいても、太鼓をドン/\なぐつても、妙見坊主や日蓮の一寸挺には合い兼ねる。二度目の斯世の立替は、勝手気儘の神々や生臭坊主の年の明き。

Oそんじや徳じやと計算斗り、損の中にも得がある、得と思ヘば損となる。兎角この世は人民の、思案斗りで行きはせぬ。万事万端神界の教を守り行くなれば、見えぬ所から神々が、守護なされて何事も、キチリ/\と遂げらるゝ。思案も工夫も要りはせぬ。心研いて御教になびけよく神の子等。

Oつるぎの山に登るとも、千尋の荒海打ち渡り底の藻屑と成とても、ナドヤ厭はん敷嶋の、日本男子を引連れて丹後の国の無人嶋、沓島冠島を開かんと、神の御言を畏こみて、勇み進んで出て行く、出口の守の雄々しさよ。

明治三十三年の、七月八日の未明、一つの神祠を建初めて、唱ふる祝祠の声清く、沖に聞ゆる浪の音も、神の御声と偲ばるゝ。東の空は茜射す、日の出の景色拝しつゝ、神の教の神務終えて、大本さして帰らるゝ、出口の御親の勇ましさ。

Oねらう要所は対島に津軽、馬関海峡其次に、舞鶴軍港岸和田の間だの軍備に眼を付けて、地勢要害取り調べ又も越前敦賀より、尾張の半田に至るまで、国探を放ちて探索し、一挙に御国へ攻め寄せて、総ての活動中断し、日本を占領する企み、夢でも見てるか夷国人、日本神国の敷嶋の、神の身魂を知らないか、鰐の如うなる口開けて、只一呑みと思ふても、日本男子の魂は、胸に約りて呑めないぞ。行きも戻りも成らないぞ。綾部の錦の大本の、十里四方は宮の内、見事覚えが在るなれば、沓島の沖まで来て見よれ、鋼鉄艦も潜艇も、丹後の海の埋め草に、一隻も残さず揺り沈め、日本兵士の忠勇と、出口の守の御威徳で、艮大神現はれて、三千世界を立直す、首途の血祭り覚悟せよ。

Oなり鳴りて鳴余りたる駿河なる、富士の高峰の神霊が、まさかの時に現はれて、三千世界に鳴り渡り、登る竜巻すさまじく、清水の港に攻め寄せし、外国船を残りなく、沈め絶やして葦原の、中津御国を鎮めます、神は木花咲耶姫、神の勲の尊とけれ。

○らん暴極まる畜生国 慾に眼光を曇らせて、我神国を屠らんと、日頃巧みし軍略は、旅順、大連、韓国に、計画外づれて馬鹿を見む。石炭兵糧軍資まで、用意して置け旅順港に、今に日本が貰てやる。其返礼に日本刀、一度は切味見せてやろ、覚悟召されよスラブとも。

Oむかしの神の仕組まれし最も便利な世が参り、蒸気、電気の働きで、三千世界を近よせる、交通機関も完備して、千里万里も夢の間に、是も昔の神代から、神の御裔の奇魂、奇しき力の賜ぞ。艮金神現はれて、世界一つに統べ玉ふ、天の時節の来たものを、訳の分らぬ人民が、人智や科学の活きと、誤解して居る憐れさよ。

Oうそで固めて得心させて、あとでぺロリと舌を出す。今の世界の人々は上から下まで其通り、一分も誠のものは無い、是が畜類の世の中ぞ。

Oゐつも鳴いてる烏と思ひ、神の教もウワの空、慾と慢心強くして、心の空もかけくもり、暗夜に烏の飛つ如く、何が何やら白雲の、曙の烏に近よりて、日の出の守護と成るなれば、悪の審判は眼のあたり、罪穢の深き人々よ。早く身魂を研き上げ、改心するが日本一。不二の山ほど在る罪も、直霊の御魂に清くなる。弥々日出と成るなれば、元の生神あらはれて、激しき守護ある故に、心に曇りあるものは、余り眩ゆて寄り付けぬ。竜宮館の庭までも。

Oの山の奥も都路も天にも地にも押並べて、神の坐まさぬ所は無い。日輪お照し在る限り、変性男子が現はれて、常盤の松の世となれば、神の守護はあり明の、月の形ちの御簾の内。

Oおもひ違ひの斯世の政治 是から凡てを立替て、随意競争の弊を去り、天下公共の其為に、世界桝掛引き均らし、神も仏事も人民も、勇みて暮す神代とし、綾部を世界の中心と、定めて国々統べ守る、天津日継の御威徳と、変性男子の御守護で。

Oくにの為とは口先ばかり、今の高座の番頭は我身好かれのしがくして、下タの難儀は露知らず、人車や馬車に打ち乗りて、手掛足懸色々に、然も大道の中心を、往来の妨害気にもせず、鼻高々と澄し込み、口に葉巻を銜えつゝ、横柄面する見苦しさ。

Oやがて三十七年の明治の春の四月には、斯世の滅亡と基督(キリスト)の、神の信徒がヒマラヤの、高地を尋ねて寄り集ひ、寺を建たり祈祷して、凡ての事を打棄てゝ、救ひを祈る最中に、神の御国に生れたる、日本の人が知らぬとは、燈台下は真の暗。

 さは去り乍ら世の人よ、周章(あわ)てず騒がず一筋に、神の教に従ひて、誠を尽せば此度は、一先づ延ばす神の旨、斯世の滅亡来る事は、何れの神も知りつれど、此儘続かす経綸をば、知らざる故に色々と、騒ぐは無理も無けれ共、世界に鬼は無いとやら、鬼と言はれし艮の、隅に坐ませし生神が、斯世この儘預りて善と悪とを立別けて、世界の洗濯為し玉ひ、清きは赦し玉ふなり。早く改心一等ぞ。心次第で此度は、どんな御徳も授けられ、心の悪るい人民は、厳つき懲戒ある故に、何んにも知らぬ神の子等、凡てを捨て神界に、心捧げて祈れかし。

Oまいにち新聞披(ひら)ゐて見れば、魔法の斯世は目のあたり、殺人強盗窃盗に詐偽に間男大喧嘩、一つも碌な記事は無い。熟々思案をして見れば、実にもこの世は暗黒よ。畜生ばかりの住み処。思へよ思へ秋津人。日本は神の住み処、大和御魂の持主ぞ。世界に先立ち善行の、鏡を出して敷島の、水晶玉を輝かし、出口の守に従ひて、二度目の岩戸の大前に、世界の人を助くるは、日本の民の天職ぞ。日本御魂の持まいぞ。

○けん利義務じやと小理窟斗り 潜りて飯を喰ふものは、我神国の土の上に、いく十万の穀潰(ごくつ)ぶし。法律ばかりを楯と為し、情宜も義理も知らばこそ、鬼の上前へ越す悪魔、日本御国に(はび)こりて、今や斯世は真の暗、仁義道徳頽敗し、誠の人はなき暮し、獣畜ばかりの住む世界、清めて元え立て復す、変性男子の斯の教。

Oふじの高峰に村雲懸り清き姿を包めども、雲立ち退けば元の不二、神代ながらの神の山、気高き姿は世界一、日本魂も其通り、心に懸れる村雲を除けば直ぐに光り出す、元は天地の分身魂、魂を磨けよ人々よ、神の誠の御教を、畏こし謹しみ赤心に、誓ひて固く守る可し。

Oこん輪奈落の底まで落ちた、腐敗堕落の世の中に、水晶御魂が只一とつ、一つの御魂を種として、日本御魂を培養し、二度目の世界の御柱と、したつ岩根の大本の、神の御役に立てんとて、心を千々に砕きつゝ、血を吐く思ひの辛労を、世人の為に舐め玉ふ、変性男子の雄々しさよ。

Oえん慮(りょ)笑〔会〕釈も梨地の硯(すずり)、齢も長き命毛の、筆を振ひて皇神は、三千世界の出来事を、示して斯世を救はんと、明治の二十五年より、出口の守は一筋に、知らせ給へど濁る世の、人の心は真の暗、悪魔の住家と成果てゝ、誠の言葉は聞入れず、何時も恐喝と思ひつめ、悪胴据えて動かない、訳の分らぬ人草は、地球の上に充満し、益々この世は汚れ行く。

Oてんの神勅を畏こみて、泥海世界を清めんと、三千年の其の間、堪らえ玉ひし御難苦は種々雑多に身をやつし、神政成就の其為に、守り給ひし霊徳が、天運循還て歴然と、花咲き初めぬ煎豆に。

Oあじや、亜弗利加、エフロツパ、南北亜米利加、太洋洲、一つに丸めて日本の、天津日嗣の神徳で、万古末代続かせる、神の出口の道開き、竜宮やかたに表現はれて、三千世界の主と成り、普天卒土を統一し、元の神世と改めて、神も仏も人民も、勇んで暮す松の世の、七福神の楽遊び。

Oさん千世界の梅の花、一度に開く今や時、鬼門の金神現はれて、鬼も大蛇も帰順して、松の神代と成る上は、二度目の世界は天国ぞ。曲も醜女も消え失せて、上から下まで神心、勇みて暮む楽しさよ。

○きもんの神は元の神、国常立の大神よ、斯世を造り固め成し、世の根の本に隠身て、善悪正邪の審判をいと厳重に立て玉ひ、この世一切守ります、尊とき神にましませり、鬼門の神は男神、経の守護と定まりて、緯の守護が裏鬼門、女神に坐して坤、変性女子の神霊ぞ、世界の悪魔や病ひ神、悪しき心の鬼どもを、払ひ清めて経緯の、夫婦の神は人民を、導びき給ふぞ尊とけれ。

Oゆめになり共セメテは一度、綾部高天の大本の、竜宮館ヘ往て見たい。ト言ふて霊魂は泥まぶれ。何うしたら垢が落ちるやら、近所に居ながら気が揉める、教祖を一度 拝したさ。

Oめくら聾よ世界の九分は、昔の神代が巡り来て、変性男子が現はれて、世界の事を知らせども、実地見せても気が附かぬ、一度に驚愕する事が、出来ては成らぬと朝夕に、声を限りに叫べ共、何処を風が吹くらんと、言はぬ斗りに鼻の先、フフンと笑つて空向ひて、自が乗り行く火の車、実に憐れな人ばかり。

 

 

Oみ仙の神山に立籠り、この世の泥を清めんと、三十四年は菊の月、八日に館を立出て、神徳も高きこの山に、祈り玉ひし我教主。至誠は天地に通じけん、十五の月の有明に、尊とや神霊現はれて、世の行先きの事どもをいと懇ろに説き給ひ、教御祖の御心は、春野の雪と解け初めぬ。され共高き神の山、木立は繁く溪深く、雲霧四方を閉籠めて、月日も為に光り浅せ、常夜の暗の如くなり。

Oしん徳高き神の山、開けて茲に千四百、四十余年と成りぬれど、女人禁制の神の山、今に汚れし事も無く、神祗の集ひの神園として、清き霊地と鳴響く、浪音たかき八塩路の、女島男島と諸共に、神代の姿変へぬなり。神代の儘の神の国、瑞穂の国を守らんと、冠島沓島の神々は、弥仙の神山に神集ひ、清けき和知の河水に、世界を清め人々を、安きに救ひ助けんと、天の岩戸を押開らき、村雲四方に掻別けて、教御祖の手を通し、口を通して詳細に、諭させ玉ふぞ尊とけれ。

Oゑい耀栄花に暮して来たが、報ひは忽ち丸裸体、楽した後の糖苦労、難儀ばかりの珠数つなぎ、誠の為の苦労なら、神の助で何事も、末に萎れぬ花が咲、万古末代名を残し、斯世の神と仰がれん、勤めよつとめ人々よ、誠の道に乗り替て、松の心で励む可し。

Oひろい世界に只一柱、是を誠の神といふ。斯世つくりて万類を、育てむ為に日月を、守りの神と神定め、神の御子なる民草を、養ひ賜ふ有難さ。

Oももち万の神々が、鬼門の神に従がひて、三千世界を夫れ/\に、持場々々を守ります、山には山の神坐まし、河には河の神居まし、草木は草木の神居まし、海には海の神います。大地は禁闕金の神、二度目の世界の守護神、陸と海との竜宮の、乙姫どのはこの砌(みぎ)り、綾の高天原に現はれて、日の出の神とひつそうて、斯世の守護と代りたり。天地覆りて上へ下タに、成るとの教は此事ぞ。実に尊き神代かな。

Oせまい心で鼻高さんが、高天原へ出て参り、出口の守の筆先を、聞いたら嘸や困るべし。心に合ぬ事斗り、三日や十日や百日に、神の経綸は解りやせぬ。誰しも覚え在る故に、一寸様子を書くなれば、浅智慧学者の胸の内、一から百まで知れ渡る、変性男子の御身魂、出口の守の書れたる、世界の宝の神教が、心に当りて耳痛く、聞けば聞く程腹が立ち、身体がピリ/\震い出し、気分悪しくてモヂ/\と、終にや遁げて去にとなる。

 眼と口の間に在る、鼻が知らずに高く成り、夫れが邪魔して脚下が、見えない故に丼壷(どつぼ)へ、落ちて難渋する迄は、こゝの教は聞かれない。少しの学が邪魔になり、理窟斗りに固まりて、何時も疑念の晴間なく、心に取越苦労而已、生れ赤子に成るまでに、高い鼻めが邪魔をして、誠の教の垣をする、なさけないのは人心。

Oすでに悪魔に取ひしがれて、危ふい処を差添の、誠こゝろに染められて、捨た思案の後戻り、洋服脱いで沓捨てゝ、皮のカバンも投捨てゝ、昔の神代の人となり、熟々思ひ回らせば、出口の守の御知らせの、通りに汚れた世界じやと、固く心を取り直し、只一筋の神の道、心も勇み気も開き、花咲く春に遇ふ思ひ、斯んな結構が又と世に、三千世界に在らうかと、初めて覚り大本に、大きな尻を末長く、綾の高天で猫と成る、オツトどつこい神様の激しき威徳に照らされて、心の底の塵芥を、白状したが情け無い、是が出口の王仁三郎。

 

Oいちぶと九分との戦いで、三千世界を立直す、出口の守の男々しさは、日本の国の礎ぞ。

Oろんより証拠見て御座れ、今に世界が立直る。出口の守の御威徳で、変性男子が現はれて。

Oはやく早くと待つのは神世、悪の斯世を立替て、人々勇み暮す世を、変性男子の御威徳で。

「神霊界」大正六年十一月号 

 

いろは神歌

大正六年十一月三日

O何鹿の郡綾部の本宮の、拾里四方は宮の内、下津岩根の珍の国、高天原と称えつゝ、天に坐す神八百万、地に坐す神八百万、集りまして幽世と、現つの世をば知ろしめす、其神業を神議り、議り玉ひて常夜往、烏羽玉の世を照さむと、伊都の御魂と現れまして、天津日嗣の動ぎなく、目出度御代を松の世の、常磐堅磐の礎を、搗固めます霊の地を、知らずに暮す世の人の、心の空の仇曇り、晴るゝ由なき憐れさよ。

Oろんどんのカラの都に預けたる、金山姫の御宝は、何時還り坐す術を無み、御姿さえも瑞穂国、豊葦原の中国の、力を削る曲津霊は、英米西大国西の海、底の藻屑と鳴る神に、臍を奪られし姿なり。

Oはに安の彦の神言の現はれて、雲井に懸る群雲を、伊吹き放ちて春日なる、天津日蔭の隈も無く、輝き渡る日の本の、国の稜威は弥高く、鳴戸の海の弥深き、神の恵の鳴り々て、鳴りも合はさる仇波を、大海原に加々呑て、世の大本の一筋の、誠の神の統べ玉ふ、国常立の神の代を、来さん為に三千歳の、道有る御代を松の大本神の出口の畏こけれ。

Oにし東南と北の荒海に、艦充ち続け寄せ来る、醜の荒びの猛く共、御空に震う鳥船の、羽音は如何に高くとも、空より降らす迦具槌の、三ツの都を夜藝速男、如何なる神の猛びにも、少しも怖ぢぬ日の本の国に幸ふ言霊の、ウとアの水火にカラ鳥の、胆を抜かれて落ち此方に、神の稜威の著じるく、頭を地に逆様に、神の御国に何時までも、仇波立たぬ松の代と、駿河の国の不二の山、気高き姿の其儘に、世界の上に聳ゆなり。

O保日の命の現はれて、海の内外の嫌いなく、降らす血雨の河と成り、屍は積みて山を為す、カラクレナイの敷島の、赤き心は日本魂、火にさえ焼けぬ国魂の、光り輝く時となり、体主霊従の身魂を焼き尽し、水火の国の中津国、下津岩根に現はれし、厳の御魂の勲功の、天照る御代の楽もしさ。

Oへだて無き、神の恵みは弥高き、高天原に現れまして、乱れ果てたる現し世乃(よの)、諸々の人草救はむと、誠の道をたてよこの、二柱神の勲功は、天之岩戸を開くなる、奇磐間戸の手力男、日本の人も外国人も、神の教えに手撫槌(てなづち)や、足撫(あしなづち)の道に迷ひたる、身魂を善きに導びきて、ミロクの神の守ります、常磐の松の神の世に、覆して統ぶる世の本の、国常立の神ぞ尊とき。

Oとつ国の醜の仇浪いや猛く、秋津島根に打寄せて、国の中分を洗ひ去り、浪花の土を汚しつゝ、五十鈴川に襲い来て、清き宮川泥と為し、御国の魂を盗まむと、深き奸計は三重県、尾張半田に押寄せて、手配り為せる其刹那に、伊勢の神風吹起り、怒れる浪の物凄く、心の黒き黒船の、浮瀬に沈む神罰の、忽ち来ると白人の、国の末こそ憐れなりけり。

O千早振神代ながらの神国の、千代も八千代も動ぎなき、天津日嗣の大君は、豊葦原の中津国、瑞穂の国の主師親と、現はれまして天の下、四方の国々隈もなく、言向平し御恵の、露の御玉に潤ひし、日本御国の民草は、我大君の知食す、大御神業にあななひて、内外の国を助く可き、神の依しの天職を、身も棚知らに弥広に、尽せ日本の神の子等。

○りう球につづく台湾ボウコ島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人、外国魂のこゝかしこ、国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミ斗り、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを妨ぐ由なし。

Oぬさ採りて和知の川辺に祈りつゝ、この世の泥を滌がむと、明治の廿五年より、直なる針に餌も附けず、川王の鯉のツレ無くも、鮒や諸魚の屑のみぞ、神の恵の糸長く、釣下ろしたる一筋の、誠の瑞の魂いが、かゝり玉ひし益良夫の、釣り合ふ御魂男子女子、太公望の大望も、西伯文王に見出され、国を治めし古事の、今目の前り北の空、光り輝き渡るなる、神の大橋いや太く、掛けし祈りの尊とけれ。

Oるい卵の危ふき国と成り成りて、成り合はざりし異国の、国王は位を降されて、夏なほ寒き西伯利亜の、荒野の果に退らはれし、スラブ王家の憐れさは、聞くも涙の種なれど、我神国に刃向ひし、支那もスラブも天命の免れぬ道と覚悟せよ。続いて三つ四つカラの国、神の御国に仇を為す、報いは今に火の車、乗りて奈落ヘ落ぶれの、悪魔の頭ぞ憐れなり。

Oをに大蛇狼よりも恐ろしき、異国魂の奸計は、口に蜜をば含み宛、尻に剣持つ蜂の如、大砲小砲の兵器を、残らず反古の紙と為し、尻の穴まで見済して、時待つ時の火車を、御国の空に轟かし、掠め取らんと曲津神、企みは実にも良けれども、日本の国は昔より、神の御幸ちの強き国、人は三分に減るとても、神の身魂は永遠に続く常磐の神国ぞ、異国魂の世の末と、成り定まりし幽世の、神の経綸も白人の、世の終りこそ憐れなりけり。

○わた津見の神の宮居に鎮まりし、玉依姫の現はれて、綾の高天に上り坐し、御供の神も数多く、集い来まして斯度の、神世の経綸助けむと、金竜界の島々に、今は潜みて時津風、松の神代と成る迄は、水分の神志那津彦 巌の神や地震の、荒々しくも荒れの神、一度に開く竜神の、伊都の雄猛び弥猛く、天地四方の国々も、海山河野の生物も、震い慄のき地に附きて、眼も鼻も耳口も、何と詮方泣声も、轟き渡る皇神の、言葉の霊の限り無く、鳴り渡る時選まれし、日本心の身魂のみ、次の神代の御柱と、栄誉と共に残るなり。

Oかくり世も現ツの世をも押並べて、天津御祖の大神の、依さし玉ひし其儘の、清き神代の御政に、曳き還さむと梓弓、巌も徹うす敏心の、日本心の弥固き、矢竹心の畏くも、世をうしとらの皇神が、下津岩根に現はれて乱れたる世を正さむと、月日さまねく一筋に、誠の道を証しつゝ、勤しみ玉ふ惟神、神の出口の勇ましさ。

Oよに出でし守護神等の鼻高く、雲井の空に蔓こりて、天津日蔭の御光りを、包みかくして葦原の、中津御国を曇らせつ、下国民の苦しみを、余所に眺めて吾れの身の、しかく斗りに日も足らず、月日を送る曲津日は、落ちて散り行く秋の野の、木の葉の果そ憐れにも、踏み付けおきし民草の、足に踏れて泥まぶれ、泥海の世を固めたる、国の御祖の大神の、御袖に縋り歎くとも、神の審判の明けく、罪の隠るゝスキも泣き、人の果こそ憐れなり。

 

 

 

Oたよりなき、世の人々に便るより、神の御教にたよりなば、斯世の中に恐るべき、物は一つも荒魂、神の力に勇ましく、楽しく渡る和田の原、隔て遠き外国の、果しも知らに行くとても、天津日蔭の照る限り、安く守らせ玉ひつゝ、恩頼の幸ひて、国の誉れと諸共に、遺る勲功千代八千代、万代迄も日本の、御魂を照らせ日本益良雄。

Oれん合の国の軍は強くとも、心は割れて四ツ五ツ、いつか勝負の果も無く、力は既にイングリス、艮に以太利て雨りかの、フランス跡に地固めの、望みもつきてカイゼルの、甲斐なき終り世の終り、金も兵糧も尽き果てゝ、互に臍を噛みながら、猶ホ凝りづまに向きを替ヘ、良き支那物を奪はんと、命限りに寄せ来る、其時こそは面白き、茲に仁義の神の国、豊葦原の足に掛け、蹴え放ららかし息の根を、絶ちて悪魔を絶滅し、世界一つに統べ守り、祭政一致の神政を、天地と共に楽まむ。

Oそしもりの山に天降りし素盞嗚男の、神の命は恐こくも、綾の高天に昇りまし、国に仇為す鬼大蛇、天津醜女や曲津霊を、十握の剣抜き持ちて、切り立薙ぎ立て遠近の、山の尾毎に斬り靡け、河の瀬毎に追い払ひ、はらひ清めて四方の国、草の片葉に至る迄、救ひ助けて艮の、皇大神と諸共に、二度目の天の岩戸をば、開けて目出度午の春、天の斑駒逆剥ぎの、世の醜魂を遺ちも無く、退いに退いて草薙の、心の剣皇神に、供え奉りて瑞穂国、瑞の御魂の美はしき、勲功辰巳や午の年、未申なる皇神の、称えを酉の秋の空、錦織りなす紅葉の、赤き心の現はれて、鬼さえ戌の天の下、治まる御代は斯神の、亥にしへよりの勲功ぞと、青人草の仰ぐ世を、松と梅との花の大本。

Oつきも日も隠れて見えぬ叢雲の、中にも神の恵あり、人を奪り喰ふ鬼大蛇、地震雷鳴火の雨も、少しも怖ぢぬ正人は、男女の別ち無く、神の守りし人ぞかし。マサカの時の杖と為り、力と為るは信仰の、徳より外に何も無し。神の御子なる人の身は、神を誠の親と為し、心の限り身の限り、仕え奉りて天地の、諸の猛びも心安く、凌ぎ/\て松の代の、人の鏡と鳴神の、轟ろき渡る高き名を、千代に伝えて神国の、国の真柱搗き固め、勲功を立よ万代に。

Oねの国に落行く霊魂を救はむと、厳の御魂の大御神、瑞の御魂と諸共に、綾の高天に現はれて、竜宮館の渡し場に、救世の船を浮べつゝ、待たせ給へど烏羽玉の、暗に迷ヘる人草は、取り付嶋も荒塩の、塩の八百路の八塩路の、浪に漂よい迷ひつゝ、沖の彼方ヘ走せ行くを、救いの船に棹さして、呼ベど叫ベど不知火の、浪のまに/\隠れつゝ、海の藻屑と鳴戸灘、危ふき渦に近寄りて、行衛も波の底の国、流れ行くこそ悲しけれ。

Oなに波津に咲くや兄の花冬籠り、今を春辺と咲匂ふ、我大神の言霊の、鳴り渡ります竜の春、罪も穢れも内藤の、家に集える信者を、大本王仁が引連れて、御稜威もたかき神の森、大阪本の文雄大人、其他あまた伴なひて、大和の国に名も高き、畝火の山に参上り、四方の国々見はるかし、蜻蛉の臀咋せる国と、詔らせ給ひし神倭、磐余の君の斎きたる、最も畏こき橿原の、珍の御宮殿伏し拝み、皇御国の幸いを、赤心籠めて祈りけり。

○らうそくの我身焦して暗の夜を、照すは神の御心ぞ。神に仕えしともがらは、世の為人の為ならば、家をも身をも省みず、人の譏りも斑駒の、耳に東風吹く心地して、世人の為に尽さむと、朝な夕なに命毛の、筆採り坐して千早振、神の御教を説き給ふ、教御祖の勲功は、高天原と現はれて、四方の民草靡けつゝ、神の出口の道開き、広き斯世の宝ぞと、天に坐す神地の神、歓こび勇み賞で玉ふ、錦の機の目出度けれ。

Oむかしより花に名高き吉野山、八幡の山の奥深く、ミロクの世まで隠されし、音姫どのゝ御宝の、在所尋ねて千代八千代、動かぬ御代の大本の、千歳の松の神の子が、鶴殿君に従ひて、未だ散り終えぬ八重桜、日本心の大丈夫が、高天原を立出て、折も吉野の上市に、一夜を明かし妹背山、吉野の川に隔つれど、誠心の隔てなき、浅野、豊本、牧、村野、梅田、秋岡、出口王仁、星田、多慶子や金谷の、清き身魂は吉野川、流れに添ひて上り行、十里の道も山吹の、一重の花に引かされて、神の教へのかしこくも、早柏原に着にけり。雲井の空の神人と、ひなに育ちし賤の男が、深山の奥に手を曳きて、峻しき山を辿りつゝ、御国の為に赤心を、尽すも神の引き合せ、黄金の山の奥深き、神の経綸は白雲の、花の吉野の水清く、治まる御代の礎を、踏み固めたる千代の鶴、八千代の亀の末長く、開け行く世を楽しみに、松まの長き真鶴の首。

Oうしとらの神の御言を畏こみて、下津岩根の本宮の、神に仕ふる教子が、教御祖に巳ひて、巳年五月の八ツの日に、息長姫の祭りたる、木村の里の庵我の宮、車軸を流す雨空を、厭ひ給はず出坐しの、御供の人は四百人風も福知の町過ぎて、軍の音も静々と、神の御前に着き給ひ、唱ふる祝詞の声清く、御国の為に皇神の、東の国ヘ神幸を、祈り給ひし赤心を、神も諾ひ玉ひけむ、三日を経たる夕空に、神の証しは丹頂の、鶴飛び来り高杉の、上に宿りて只三声、鳴き渡りつゝ産土の、一宮神社の神の森、さして飛び行く吉瑞は、千代の栄えの松の代を、祝ぎ給ひたる惟神、神の稜威のいや高き、事の証明を水茎の、文字に写して皇神に、日々に仕ふる神職、田中の大人の送られし、御文は神の御宝と、世の大本に留めけり。

○ゐすくわし神の光に照されて、曇り果たる村肝の、心の空も晴れ渡り、月日輝き幽世も、現つの世をも明らけく、覚り開きし神心、瑞の御魂と現はれて、御国を守る神と成り、斯世の母と成々て、恵を四方にたらちねの心も熱田の神の宮、つるぎの稜威いやちこに、日本建と生れましぬ、是須佐之男の身魂なり。

Oのあの言霊あ〔なの誤〕と反り、なおの言霊のと反る、のあとなおとの方舟の、真中に住みきるすの御霊、すめら御国のすがた也。のの言霊を調ぶれば、地に泥水充ち溢れ、渦巻廻る御霊なり。あの言霊を調ぶれば、天津御空に昇り行き、成り合まさぬ御霊なり。のあの御霊は泥水の、世界を浸し山を越え、賤しき身魂の雲の辺に、上りて天を汚すなり。さは去り乍ら世の人よ、昔の事と思ふなよ、のあの御霊の災は、今眼の当り現れにけり。なの言霊を調ぶれば、火水の結びの御魂にて、天津御空に二柱、鎮まり坐す姿也。おの言霊を調ぶれば、汚れし地を清めつゝ、六合を治むる御霊なり。地より生れし埴安の、神の御霊もお声なり。五大州の中心に、皇ら御国の天皇の四方の国々統べ給ふ。此の言霊を省みて、皇ら御国の天職を、覚りてなおの方舟の、さとしの舟に乗り移り、瑞の御魂に神習ひ、泥に漂ふ世の人を、なお霊に見なおし詔りなおす神の大道に導きて、世人救ひてヒマラヤの、山より高く名を上げて、二度目の神代の種と成り、万代までも世の人の、救ひの神と鳴り渡る、言霊の道尊とけれ。のあとなおのはこ舟ナタサカアニチシキイヌツスクウネテセケエノトソコオ

Oおちこちの寺の金仏、金道具、釣鐘までも鋳潰して、御国を守る海陸の、軍の備えに宛つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理に成ります金山の、彦の命の御代と化り、下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代えても足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれ。

Oくに挙り上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず、遠津御神の造らしゝ、御国を守る兵ものと、日本心を振起し、伊都の雄猛び踏み健び、厳のころびを起しつゝ、海往かば水潜しかばね山往かば、草生す屍大君の、御為に死なむ徒らに、閑には死なじ一足も、顧みせじと弥進み、いや迫りつゝム山の尾に、追伏せ散らし川の瀬に、追払ひつゝ仇軍、服従え和して浦安の、御国を守れ秋津人、現津御神と大八洲、国知食す天皇の、高き恵みに酬えかし、日本島根の神の御子。

Oやすみしし吾大君の高光る、天津日嗣の日の御子の、聖の御代の明らけく、大く正しぎ大御代は、都もひなも押並べて、恵みの露の隈も無く、草の片葉に至るまで、高き稜威を仰ぐ世の、六年の秋の末つ頃、四尾の山の佐保姫も、錦の機を織りなして、四方の景色の麗かに、牡鹿妻呼ぶ時もあれ、御国の光り照妙の、綾の錦の山里に、御国の母とあを雲の、雲路遙かに掻別けて、民の蚕飼の事業を、嘉し給ひて天降り坐す、大御恵を嬉しみて、遠き国より近きより、老も若きも押並ベて、御影を拝む国民の、道も狭きまで群集り、伊迎い奉る真心は、嬉し涙に紅の、赤きもみぢの柏手の、高き稜威を仰ぐなり。千早振神代も聞かず丹波路に、斯るためしもあら尊と、君の恵のあなかしこ、賢こき御代に生ひ出し、此上なき幸に大本の、神に仕ふる王仁が、御空を仰ぎ地に伏し、身の賤けきも打忘れ、心の限り身の限り、今日の行啓を祝ぎ奉る。

Oまが津霊の猛き荒びに奥山の、紅葉の色も光り浅せ、鳴く鹿の声悲しくて、錦織り成す佐保姫の、頭も真白に成相の、山に連なる大江山、鬼の鼻より吹降ろす、冷たき風に遠近の、木々の稍も皆散りて、行衛も知らず真木の葉の、東の空に舞ひ狂ひ、狂ひ還りて四ツ尾の、山に黒雲天を蔽ひ、世の大本を見下せど、古き神代の昔より、隠れ坐したる艮の、神の稜威に退はれて、あと白雲となりにけり。

Oけがれたる斯世の中を如何にせむ、誠の神の御教えを、家をも身をも打忘れ、朝な夕なに一筋に、心を尽し身を尽し、筑紫の果も東路も、至らぬ隈も無き迄に、教え諭せど食う物と、衣るより外に心無き、心卑しきけだものゝ、角振つ立て反対に、力限りに攻め来り、救ひの綱も切れ/\に、何と詮方なく斗りなり。

Oふる里に老ひたる母を振り残し、御国に尽す益良夫の、心の空は五月暗、暗き斯世を照さむと、千々に思ひを砕きつゝ、二十年余りて惟神、神の御教を伝へつゝ、治まる御代を待乳山、山郭公血も涸れて、呼ぶ声さえも暗の夜の、人の心の鞍馬山、深山に猛き狼の、古巣を潜り蛇むかで蜂の室屋に幾度か、投げ入れられて猶も又、針の蓆に居りつゝ、袖は涙の三瀬川、渡りあぐみし丸木橋、生命を掛けて渡会の、宮に坐ます皇神の、稜威に開けし大本は、斯世の中の大橋と、遠き近きの別ち無く、問ひ来る迄に進みしは、清き和泉の住の江の、神に仕えし生神の、小松林の勲功なり。「神霊界」大正六年十二月号 Oこきうすき色は変れど紅葉の、聞えも高き高尾山、峰の木の間に照妙の、綾と錦を織り成して、世人の為に歌はれし、其装ひも夢の間に、寒き木枯し吹き荒び、元の姿もあらし山、嵐の跡の淋しさは、この世の遷り変り行く、神の誠の黙示なり。省み覚れ浮世人、世の行末も眼のあたり、花咲く春の来る迄、神の恵みに冬小森、心を尽し身を尽し、常磐の春の長閑なる、御代松こゝろ持てよ世の人。

Oえらまれし人のみ住める神の世は、戦ひも無く暗みも無く、苦しみ迷ふ人も無く、饑え凍えたる人も無き、天明けく地豊に、見る人毎に神心、曲津の潜む蔭も無し。齢も長く病無く、眼涼しく顔清く、現世幽界隔て無く、澄み渡りたる世の中に、残る身魂の楽しけれ。

Oてる妙の綾部の里の鬼村は、人が倒けよが斃れようが、我れさえ良けりや宵の口、酒呑童子のさかさまに、神の教も聞かばこそ、弱いと見れば人呑みに、因縁付けて酒買はし、貧しき家をば呑み潰す、鬼と大蛇の極悪の、本宮村ぞ憐れなり。

Oあらたうと神の御教の深くして、斗り知られぬ味ひは、この世開けし初めより、今に至りて変り無く、千々に心を砕きつゝ、青人草を愛くしみ、陰に陽に守らいて、罪に穢れし空蝉の、からの身魂を救ひ上げ、神代乍らの霊主肉従の、神の御国を立よこの、二柱神が現はれて、二度目の天の岩戸をば、開く日本の梅の花、四方に薫りて鶯の、谷の戸開けて初春の、鳴く音に優るあはれさを、只白雪の世の人の、解けぬ霊魂を目のあたり眺めて忍び玉の井の、底ひも知らぬ皇神の、深き御心汲み取りて、清まり澄むを松の代の、楽しき時ぞ待ち玉ふ、いづの御魂の畏こけれ。○さか孔子も悟り得ざりし真理を、覚す高天の大本に、参来集ひて類無き、神の御教を聞人の、身の幸こそは芽出度けれ。曲津の猛き世の中に、心平らに安らかに、勇みて暮す信徒の、心の奥は真寸鏡、光り輝き天地に、貫き徹す赤心の、苔の花の開く世は、千年の松の末長く、朽ぬ宝は万代に、生き死生れ死に生れ、限り無き身も魂線も、栄え/\て皇神の、恩頼を蒙りて、誠の栄えと歓は、月日と共に続くなり。

○きみの為御国の為に身を忘れ、家をも捨て尽す身は、俸給も位階も何も無く、世人の足に踏れつゝ、臣たる道に勤みて、心の限り身の限り、筑紫の端も東路も、南も北も厭ひ無く、神の教を敷島の、底津岩根に搗固め、上津岩根に突凝し、千代万世の礎を、科戸の風の福知山、一宮神社の氏の子の、桐村氏の珍の娘と、生れ給ひし我開祖、綾部神宮の坪の内、神の出口の家に嫁り、世の艮に隠身し、国常立の大神に、久しき間撓み無く、仕え給ひし勲功の、花咲き実る御代と成り、世人の為に竭さるゝ、教御祖ぞ畏こけれ。

○ゆみ張の月の光はやましろの、鞍馬の山に輝やけど、教御祖の御心は、乱れたる世を治めんと、千々の思に村肝の、心の空も懸曇り、木の間の星の遠近と、深山の奥に杖を曳き、岩窟の中に差籠り、斯世を乱す鼻高を、言向和し治めんと、柴の褥に雲の笠、石の枕も厭ひ無く、四人の伴を引連て、善言美詞の神嘉言、心を籠て宣給ふ、其勲功に八街の、醜の曲霊も服従いて、十五の月の有明に、鞍馬の山を立出て、綾の高天へ復命、申し奉りし大僧正、数多の下神引き連て、本宮山に鎮りつ、神の御国に尽さむと、誓いを立し高神の、言葉を栞に帰り坐し、百と十日の其間、一間を閉ぢて入り給ひ、世の神々に神言を、宣らせ給ひし畏こさよ。

Oめしま男島の荒海原を、神の御言を畏こみて、明治は三十三年の、六月八日の未明、上田海潮出口寿美、四方平蔵木下の、慶太郎四人を引連て、雨風強く浪猛き、底さえ知れぬ海原を、小さき舟に身を任せ、勇み進んで出給ふ、教御祖の雄々しさに、波路半ばを渡る頃、海の御神も驚きて、御空を晴し風を和ぎ、波を静めて心安く、送り給ひし尊とさよ。神代の遠き昔より、竜宮島と聞えたる、大海原の無人島、波打寄る磯の辺に、小舟を繋ぎ静々と、上り給へば百鳥の、声を限りに鳴吟び、迎え奉りし時も在れ、若狭の海の波の上に、漂ひ上る天津日の、御蔭も最と麗かに、日の出の神の御姿を、天地四方に光しつゝ、神の出口の出修を、諾ひ給ふ心地して、神の御告の業も了え、翌る十日の夕暮に、月を頭に星を踏み、世継王の山の麓なる、大本指して帰り坐す、出口の御祖の勇ましさ。

Oみづ清き金竜海の島々は、日出る国の雛形と、祝ひ定めて築きたり。日出る国の日の本は、全く世界の雛形ぞ。神倭磐余の君が大和なる、火々真の岡に登り坐、蜻蛉の臀甞せる国と、詔せ給ふも理や。我九州は亜弗利加に、北海道は北米に。台湾島は南米に四国の島は濠州に、我本州は広くして、欧亜大陸其儘の、地形を止むるも千早振、神代の古き昔より、深き神誓の在すなり。豊葦原の中津国、秋津根別の神国は、世界を統ぶる天職を、神代乍らに具えたる、珍の御国ぞ美し国、国の真秀良場畳並る、青垣山に囲まれし、綾の錦の本宮に、斯世を統ぶる皇神の、御稜威も高く四方の国、輝き渡る兄の花の、咲耶この時言霊の、照るや斯時畏こくも、皇大神の御教を、顕はし奉れ大本の、下津岩根に集まれる、心優しき神の御子。

Oしき島の大和島根の礎と、神の撰みし益良夫の、清き身魂と駿河なる、不二の御山に宮柱、太知立て鎮りし木花咲哉姫神の、御言の随に丹波路に、天駆り来し芙蓉坊、瑞の御魂の神代を、明治は三十一年の、雪まだ残る如月の、十日の夜半に奥深き、高熊山に連れ行て、神の御詔を宣べ伝へ、神の柱と経緯の、錦の機を織らさむと、心づくしの兄の神の、教の甲斐や有明の、月を合図に穴太なる、宮の傍の宮垣内、賤が伏屋に帰り行く、神の経綸の奇びなれ。

Oゑらまれし神の柱の甲斐も無し、早二十年を過ぬれど、神の依しの神業の、万の中の一つさえ、為し遂げ得ざる苦しさに、千々に砕くる村肝の、心の空は五月暗、袖に涙の晴間なく、御国に尽す赤心を、雲井に告よ時鳥。玉の御声を待乳山、姿隠して泣き渡るなり。

Oひさ方の天津御空に照る月は、昔も今も変らねど、変り果たる現世の、人の心を悲しみて、夜は寝もやらず只一人、加茂の川辺に彷徨つ、月に誓ひを掛巻も、恐き神の御国をば、元の神代に還さんと、乙女心の一筋に、思ひ浮ベて行水の、流れに沈む月影は、波に砕けて果敢なくも、年も十五の朝野子が、御国を思ふ赤心の、行る瀬無きこそ憐れなり。

Oもとゝ末内外の法を過たず、御国の為に身を忘れ、家を忘れて惟神、神の大道を辿りつゝ、審神者の道に勤しみて、諸々の霊攀夫れぞれに立別け調べ神国の、柱を造る益良雄の、未だ日も浅野王仁の大人、相並ばして葦原の、醜の仇草薙祓ひ、祓ひ清めて国造り、吾大君に奉る、厳の御魂の神勅を、謹み恐み弥遠に、弥広らかに伝え行く、心は清き和知川の、瑞の御魂と現はれて、世人を救ふ神柱の、誉れは世々に流る也。

Oせまり来る国の乱れを治めむと、御国を思ふ大丈夫が、活動く時機を松の世の、東の国に冬小森、国の鎮めと木花の、咲耶の姫の弥固き、千代の常磐の岩下に、深き経綸を駿河湾、富士より高き久方の、天津御祖の日の御子の、御稜威を四方に輝かし、神の御徳を刈碁母の、乱れ果たる武蔵野に、布て迷へる百姓を、彼方の岸に渡さむと、一つ心に太元の、教に尽す赤心は、天の児屋根や太玉の、神の御魂の御幸なり。田畑に植えし種物は、大宣津姫の御幸はひ、世人の生命弥長に、守らせ給ふ豊受の、深き恵は伊勢の海、山田の宮の奥深き、神の経綸の一柱、五伴緒の厳御魂、水野御魂の直くして、雲井に上る十六夜の、月も隈無く照り渡り、曙の烏の勇ましく、天津御空に日の神の、輝き渡り日の御子の、鎮り坐す高御座、千代に八千代に限り無く、射照徹らす天の下、四方の国々平らけく、治る御代の豊本の、瑞穂の国ぞ尊とけれ。

Oすみきりし国常立の大神の、神勅畏こみ謹しみて、明治の廿五年より、一つ心に仕えたる、教御祖と諸共に、神の御教を王仁が、幽より顕に懸巻も、恐こき神の造らしゝ、御国の汚清めんと、二十年余りて言雲の、学びに心砕きつゝ、息艮放両火脹与血濁緯濁縦、輪搦与玉濁水火続根凝濁水渦巻、浮水火清水起降文向差別吹凝胞衣発、空水割別和回月始搦回日諸瀬洲、京の都の九重の、花咲く春を松の代に、四十余八文字の生御魂、揃えて四方の国々を、ミロクの御代に進めむと、尽す日本の雄心は、一つに成て金竜の、生島々の神社、中にも別けて大八洲、天の岩戸の頂きに、真木の柱の弥高く、梅田の薫り芳ばしく、小松林の弥繁く、秋の紅葉の錦織り、澄渡りたる十六夜の、月に心を照しつゝ、神霊鎮座の大祭典、時も吉田に稔りたる、千五百の秋の八束穂や、山海河野種々の、御饌献り一向に、今日の生日を祝ひつゝ、八雲の琴の音も清く、天に座神国つ神、千五百万の神等も、集まり坐して賑敷、御祭り終えし勲功は、世の大本に信従し、清き身魂の撓み無く、道に尽せし報ひぞと、代々に伝へて芳ばしく、咲哉木の花直日嬢、御代の一の大二に、誉も竜の宮の棟、十曜の星のキラキラと、月日に照りて照妙の、綾部に錦飾る世を、松間の長き鶴の首、亀の齢の万世の、固めの基と素盞嗚の須賀の新宮八雲立、出雲八重垣妻ごみに、八重垣造る其八重野垣、瑞穂の国の中国の、天皇の大稜威、四方に轟く八雲琴、其音も清く澄渡り、天地四方に響きけり。

O京浪花東京駿河大和路に、神の柱を配置て、二度目の天の岩屋戸を、開く常磐の松の代の、国常立之皇神は、古き神代の初発より、隠身坐して幽世と、現つの国の身魂をば、最と詳細に取調ベ、天津御祖の大神に、奏し給ひて畏こくも、ミロクの神代に造らむと、思は胸に三千歳の、溢れて茲に神柱、出口開祖の身体に、鎮り坐て万世の、国の固めの神勅を、或は口に或は手は、写して世人導きつ、曲の集える大江山、鬼も大蛇も言向けて、三段に分り、霊魂をば、目鼻を附けて安らけき、常磐の御代を待乳山、鳴く郭公血も涸て、叫び給ふぞ尊とけれ。「神霊界」大正七年一月号 ろこくばかりか亜米利加までが 末に日本を奪る企画、金と便利に任せつつにLに亜米利加、北には露西亜、前と後に敵ひかへ 四方海なる日本海りう球につづく台湾澎湖島 御国に遠きこの島に 心を配れ日本人(やまとびと)外国魂のここかしこ、国売る曲の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を鼠すカミばかりヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐよしなし をに大蛇狼よりも恐ろしき、異国魂の奸計は、口に蜜をば含み宛、尻に剣持つ蜂の如、大砲小砲の兵器を、残らず反古の紙と為し、尻の穴まで見済して、時待つ時の火車を、御国の空に轟かし、掠め取らんと曲津神、企みは実にも良けれども、日本の国は昔より、神の御幸ちの強き国、人は三分に減るとても、神の身魂は永遠に続く常磐の神国ぞ、異国魂の世の末と、成り定まりし幽世の、神の経綸も白人の、世の終りこそ憐れなりけり。 れん合の国の軍は強くとも、心は割れて四ツ五ツ、いつか勝負の果も無く、力は既にイングリス、艮に以太利て雨りかの、フランス跡に地固めの、望みもつきてカイゼルの、甲斐なき終り世の終り、金も兵糧も尽き果てゝ、互に臍を噛みながら、猶ホ凝りづまに向きを替ヘ、良き支那物を奪はんと、命限りに寄せ来る、其時こそは面白き、茲に仁義の神の国、豊葦原の足に掛け、蹴え放ららかし息の根を、絶ちて悪魔を絶滅し、世界一つに統べ守り、祭政一致の神政を、天地と共に楽まむ。 ねの国に落行く霊魂を救はむと、厳の御魂の大御神、瑞の御魂と諸共に、綾の高天に現はれて、竜宮館の渡し場に、救世の船を浮べつゝ、待たせ給へど烏羽玉の、暗に迷ヘる人草は、取り付嶋も荒塩の、塩の八百路の八塩路の、浪に漂よい迷ひつゝ、沖の彼方ヘ走せ行くを、救いの船に棹さして、呼ベど叫ベど不知火の、浪のまに/\隠れつゝ、海の藻屑と鳴戸灘、危ふき渦に近寄りて、行衛も波の底の国、流れ行くこそ悲しけれ。 おちこちの寺の金仏、金道具、釣鐘までも鋳潰して、御国を守る海陸の、軍の備えに宛つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理に成ります金山の、彦の命の御代と化り、下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る物の具と、造り代えても足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれ。くに挙り上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず、遠津御神の造らしゝ、御国を守る兵ものと、日本心を振起し、伊都の雄猛び踏み健び、厳のころびを起しつゝ、海往かば水潜しかばね山往かば、草生す屍大君の、御為に死なむ徒らに、閑には死なじ一足も、顧みせじと弥進み、いや迫りつゝム山の尾に、追伏せ散らし川の瀬に、追払ひつゝ仇軍、服従え和して浦安の、御国を守れ秋津人、現津御神と大八洲、国知食す天皇の、高き恵みに酬えかし、日本島根の神の御子。

 

「神霊界」大正七年一月号 

 

 『いろは歌』の中の予言と思われる部分である(このHPには全文紹介)。今次の大戦を体験した人ならば「お」や「 く」の項などあまりになまなましくてこれが果たして大正初期に予言されたことかと目を疑うであろう。また 「り」 の項などでは琉球・台湾・膨湖島の何やらあやしい気配を予言し、「降る雨リカを防ぐ由なし」と断じて、天皇や大日本帝国の権威も及ばぬことを知らせる。「を」や「れ」の項の後半は一見日本の勝利の予言かに見える。しかし他の項と照らし合わせれば、これが当局に対する隠れ蓑であることは言うまでもない。 <その他の項目にも予言歌があるが、省略>

 

一葉落ちて知る天下の秋

 

この神歌の発表によって浅野和三郎はいっそう確信を深めたであろう。

 

「…竜虎相打つ戊の午の年より本舞台 いよいよ初段と相成れば 西伯利亜(しべりあ)線を花道と…」戊の午の年は大正七年、しかもシベリア出兵がいまや国民の関心の焦点である。<王仁三郎は十二年伸びると後に言明>

十一月七日の十月革命によってロシアにソヴィエト政権が樹立され、日・英・米・仏はその直後から革命に干渉し始めた。日本にとっては、北隣に社会主義国が生まれたのだ。浅野の質問に王仁三郎は「近いうちにシべリア出兵があります」と言下に答えたが、そのときこそ、「西伯利亜線を花道に」の初段であり、続いて二段目の幕があき、三段目を招く。明治五十五年立替えの予言は一憑霊の言ではなく、大本神諭なのだ。大本信者として大本神諭を信ぜずしていったい何を信じよというのか。しかも大本神歌によって裏打ちされている。」

 大正十年といえば教祖八十六歳、これ以上延びては教祖生存中に立替えができぬではないか。王仁三郎の立場で立替えの時期を明かせぬとあれば、証文の出しおくれとならぬために誰かが代わって発表せねばなるまい。それも教団の相当の役職の者の言でなければ、証文の価値もなくなる。自分が十字架を負おう。万々一誤ったときには浅野の放言とすれば大本にも王仁三郎にも直接の責めはかかるまい。殉教者の悲憤な覚悟であった。

 その第一声は、大正七年六月末、浅野、友清天行(ともきよてんこう)らによって出雲神歌の発祥の地 松江講演で発せられる。敵に向かって宣戦布告でもやってのける激越な調子に聴衆は呆然自失。数人の新聞記者がかけ込んで「浅野さん、あなたは正気か」と詰め寄ると「ともかくあと千日余で立替えがくるのさ。書くならせいぜい今のうちだよ君」と言い放ったという。

  浅野の危機意識は、つかまえどころのない王仁三郎を除いて大本全部のものであった。『神霊界』だけではあきたらず、大正六年十二月には旬刊紙『綾部新開』(一部一銭・郵税五厘)を創刊、全国の市町村役場や学校関係、実業関係などの各方面に毎号贈呈を続けた。大正七年二月には皇道普及会を創立、無料配布の財源を引き継ぐが、信者や有志の寄附の求めに応じる共鳴者は多かった。さらに『神霊界』も三月から半月刊に改められ、文書による猛烈な全国的キャソペ-ンが展開される。

  国内外の不安な情勢を背景として大本の叫びは思想的に動揺する国民各層の間に浸透の輪をひろげていく。明治五十五年立替え説の文書による第一弾は、『綾部新開』大正七年八月号である。

「一葉落ちて知る天下の秋」の大見出し、 「〃世界立替の日は愈々迫る〃…〃次の世界はドンナ世界乎〃…」の小見出しで激しい警告が全紙面を埋める。(次項の傍点は原文では太字)「戦ひの来るのは戦ひ来るの日に来るのではない、事の成るは成るの日に成るのでないのと同様であります。暑くなった今が夏の真っ盛りだと思ふ時には、すでに地底には秋の気が旺んに張り裂けるばかりに満ち充て居るのであります。明日も太陽は東から出るから明日も平和であらう、今年も平和であったから明年も先づこんなものであろう、無論活きた世の中だから多少の変動はあらうけれど、大体に於て先づこんなものであらうとは百人の中の九十九人がそう思って居る処であります。

 普通の人間から言へは天災地変、又人間社会の一波乱に過ぎないと思ってるで有りませうが、世の中に偶然の出来事なるものは一つもありませぬ。善い事にあれ悪い事にあれ何れも皆ことごと神慮の発現ならざるはありませぬ。ここに於てか昔の人でも少し気の利いた連中は『一葉落ちて知る天下の秋』なぞと云って、煙の立つを見てすでに火のあることを悟りました。

 今や何千年来の御計画実現の時節が到来して、因縁の身魂たる出口開祖にかかられいよいよこの悪の世を善一筋の世に立替へる大経綸に着手されたのであります。所謂建設の前の破壊で、この現状世界が木っ端に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争に引続いておこる日本対世界の戦争を機会として、所謂天災地変も同時に起こり世界の大洗濯が行われるので、この大洗濯には死すべきものが死し、生くべきものが生くるので、一人のまぐれ死も一人のまぐれ助かりも無いのであります。そんなら日本対世界の戦争はいつから始まるかというと、それは今から僅か一ヶ年経つか経たぬ間に端を啓きます。皇道大本の云ったことで千百中只の一つも毛筋の巾ほども間違ったことはありませぬ。

 日清戦争も日露戦争もこの度の欧州戦争も、みな大本神の世界立替の準備行為のようなものでありまして、したがってその計画実行の中府=神と人との集合所たる皇道大本ではいずれも明治二十五年から分明に前知されてあったのみならず'、事情の許す限り、堂々と前もって発表してあります。 この度の欧州戦争は実に突発的に起こったもので、その一日前まではこのような騒動が起ころうとは誰一人夢想もする人はなかったが、皇道大本教主出口王仁三郎先生はその約一ヶ月前に公開の席上で、今すぐ世界的大戦争が欧州に起こるということを発表されてしまわれました。去る六月二十五日から七月九日まで松江・米子、鳥取方面を巡講された皇本大本の浅野総務は、至る所で日本のシベリア出兵は最近に決定するという事を言明して歩かれたので、知識階級の頑迷な部分に属する連中は、当時の政界の模様から観測して、そんな馬鹿なことがあるものかと嘲笑してゐたが、それから十数日を経過すると出兵決定の号外が出た。

 綾部の皇道大本は世界の鏡で、何も彼も世界のことが大本へ反映ることになって居りますので、大本内部を見ているだけでも少しは解るはずです。この頃いろいろ重要にして最も神聖なる使命を有する建築物等が相次いで竣工せんとしてをりますが、大本では不必要な時機に不必要なものは一つもできませぬから、世界に何かのことがよほど迫ってきた事が分かりましょう。

 もう少し突っこんで書いて知らせて上げたいけれど、それは出来ませぬ。神さまの目が光って居ります。この節しきりに米が高いと愚痴を並べてをりますが、まだこれどころではありませぬ。今から半年もすればウンと高くなります。いよいよ日本対世界の戦争になって、少し日が経って難局に陥りますと、一昨年の露国ぐらいなことではありませぬ。露都で米が一升が二円もすると云って驚いたけれどもいよいよとなると日本は小さい嶋国でありますから経済界の神経は一層過敏で、日本が絶対の孤立となりますと一升二円出しても十円出しても米は買ふことが出きぬようになります。その時は政府は非常手段を講じて、名義はどう云ふ風にしても事実上食糧品の私有を許さず、一切国家が直接に保管して配給する様な政策を執るのでありませうが、もって経済社会の混乱は想像することができませう。武器の如きも無論不足欠乏しますから、寺院の釣鐘も鋳潰されるし、民間では五寸釘の折れまで取り上げられる事になり、老若界女を問はずどうかこうか動けるものは挙って国防の事に当らなければならぬようになります。

 桑を植えて養蚕をして居ても、生糸なぞは買手がなくなります。本当を言えば今は猫の額ほどの土地にも七草でも何でも食糧品を植付けてそれを数年を保存し得る様に澱粉にでも製造して置くべき時なのです。わか(中略)救ひか滅びか、貴下はその最後の岐れ道に立って居られます.繰返して申します。時期は日に日に刻々と切迫して参りました。もう抜き差しならぬところまで参りました。眼の醒める人は今のうちに醒めて頂かねはなりませぬ。

 日の経つのは夢のようですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって大正十二年頃はこの世界は暴風雨の後のような静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手している時であります。

 続いて王仁三郎の説く大正維新論が展開される。一刻も早く綾部にきて大神業に参加するよう呼びかけ、「今日に於て貴下に最も必要なるものは只決心の二字であります」と結ぶ。編集担当の友清天行の筆であった。

 王仁三郎は「脅迫宗教はいかん」とつねづね言っていたが、全文脅迫的言辞に満ちている。友清は『大本神歌』や『いろは歌』、 王仁三郎の断片的に洩らす言葉を「明治五十年を真中として・・・」の神諭の時期にまぜ合わせてこの大胆な文章とした。

 実現の時期こそ大幅にずれるが、太平洋戦争末期の日本の現状そのままであろう。この記事の掲載された『綾部新聞』は各地で申しこみが続出して品切れ、異例の増刷刊行となる。そのうえ論稿は大正七年十二月に「神と人との世界改造運動」と改題されて出版、翌年四月までの間に七版をかさねている。執筆筆者 友清天行自身はこの後一年足らずで大本を去り、のちに新興宗教〝神道天行居″ の教祖におさまるのだが・・・-。大本は全教団あげて危険な断崖に驀進していく。それらの切迫した空気を知らぬげに王仁三郎は呑気な顔であった。

 

出口なおの昇天

 

 大正六年も暮れる頃、出口なおは信者の梅田安子に語りかけている。「来年は直日さん(王仁三郎の長女・大本三代教主)が十七になるさかい・・・三代が十七の時には世をゆずるのやと神さまがおっしゃるでなあ。そう思うときなはれよ、お安さん」「また何のことどっLやろ」

 ふに落ちぬ安子のためになおは説明する。「古うなった着物はほころびを縫い破れはつづくろうて着せてもろうてます。けどつぎはぎもきかんようになったらいっぺん脱いで着がえんなりまへんやろ。人間の体も同じこと、わたしはこそっと直日のおなかへ入るでなあ。それでもお安さん、先生の御用は今度だけ一代限りで天へ帰られる。天のみろくさまの身代わりはもうないのやで。

 二代の世は短い。二代の御用ではこの世はまだあかん。わたしは三代と共に生きるのや。覚えといておくれなされ」

 大正七年正月一日、出口家や役員信者たちが揃って元旦を祝った席で、王仁三郎は安子に耳打ちした。

「お安さん、教祖はんのお体は今年中や。びっくりすなよ」

安子の体が震えた。抗議したくても満座の前である。なおも、すみもすぐ脇でにこやかに箸を動かしている。こわばる視線をふり向けると王仁三部はもう席を立っていた。

「唐土(とうど)の鳥(盗土・国を盗む外国の飛行機〜)が、今に日本に渡りてくるぞよ。毒を空から降らして日本の人民を絶やす仕組を昔からいたしておることが、よく神には分かりておるから、ながらく知らしたのでありたぞよ」(大正六年旧十一月二十三日)

 過去二十五年間、筆先はくどいはど日本の危機をくり返してきた。それも大正七年七月二十五日(旧六月十六日)まで。 なおは最後の筆先をしたためると、王仁三郎に手渡した。「これより知らせることはもうないから、このうえは人民の心で神徳をとるのざぞよ。もう知らせることはないぞよ。綾部の大本の信神は、われのことは思わずと、初発から神に心をまかしてしもうて…うぶの心に心をもちかえて、神心になりておると、なにごとも神力で思うようにいき出すから、汚い心を放り出して大河へ流してしまうがよいぞよ。大出口なお八十三歳のおりのおん筆先であるぞよ。善と悪のかおりめのおりぞよ」

 なおの笑みに淋しさがまじる。

 「筆先はもう書かいでもよいと神さまが言われますのや。立替えの筆先は終わった。あとの立直しは先生のお役目、わたしのご用もすんだような」

 なおの天に召される時が迫っている。なおも王仁三郎もそれを予知している。雑多な階級、雑多な思想の持主たちを包含しつつ急速に膨張してきた大本は、ただ教祖出口なおの存在によってのみ結束が保たれていた。なおの生存中に立替えがおこり、王仁三郎によって立直されるものと彼らは信じている。

 なおの昇天は、大本が四分五裂する危険に直面する時でもあった。第一次世界大戦を契機に、空前の大戦景気を招来した。輸出が急増し、世界有数の資本主義国に発展した日本には成金は続出するが、貧民もまた激増した。物化は高騰しても賃金の伸びは追いつかぬ。

 国は富んで民は飢えに泣いた。大正七年七月二十三日、米価のあまりの急上昇にたまりかね「飢えて死ぬより監獄へ」と米屋へ押しかける越中女一揆が報ぜられる。米騒動は飛火してやがては全国民運動に発展し、労働者・農民を主力とする大衆が米屋・富豪邸・警察などを襲撃、これらの新聞記事は差止められ軍隊が鎮圧に出動する事態に至る。

 同じ頃、マドリッドから起こったスペイン風邪は世界的に広まって、日本での死者三十九万人と報ぜられる。この異常なとき王仁三郎はみずから宣言して心身の大修被のため七十五日間の床縛りの行に入った。八月十八日(旧七月十二日)、王仁三郎四十八歳の誕生日から始まって十月三十一日で終わるはずである。

 九月になると大本は海軍将校に混じって陸軍色が際立ってくる。福知山、篠山、福岡、伊勢、松山などの連隊から大佐中佐連が部下を引率してザクザクとやってくる。東京から台湾から神戸から実力のある新聞人、実業家、貴族、軍人らが一家をあげて移住してくる。のちの生長の家総裁谷口雅春が『神霊界』編集に加わるのもこの月であった。

 しかし、行中の王仁三郎は面会謝絶、行の半ば頃から本格的な苦しみが襲ってきて高熱を発しのたうち廻る。

『神霊界』十月一日号の「編集室より」には、「出口教主の御病気(床縛りの行)は神界の御都合で七十五日間といふことになって居りますから、十月の末には全快される筈です.無論十一月三日の秋季大祭には祭紀を司られることでせう」と日を切って発表している。

 七十五日の行の上がりには王仁三郎は予告どおり床を上げた。この日、すみはなおに呼ばれて教祖室へ行く。「お前に言いおきたいことがあるのや。わたしは明治二十五年から大神さまの言われることを一遍もそむかずお筆先を書かしてもろうた。お筆先にはこの世の一切のことが書いてある。これからは女子(王仁三郎)さまが人民に分かるように説いて下さるお役じゃ。なかなかご苦労なお役じゃからお前は先生(王仁三郎) に腹立てさせぬようにしとくれなされよ」

「そんなこと言うちゃっても、あんなやんちゃ者、へイへイハイハイ言うとったらなにしでかすやら…」

 なおの顔はきびしく改まった。「お前はわたしを肉体の親じゃと思うて口答えしなさるが、わたしが言うのではない、神さまが言わせなさるのじゃで。神さまの言われることは我を出さずに素直に聞きなされ。神さまのお経輪はなあ、この世の始まりから後にも先にもないどえらいことができるのじゃげな。『神界の一厘の仕組は人に言うことはできぬ。なおにも言えぬ。この経綸を言うてやりたら、なおでも気違いになるぞ』と神さまはおっしゃる。

『大本のことは、外から判けに来る。何事も時節じゃ。時節には神もかなわぬ。経綸が成就してからああ、このことでありたかと分かるのじゃ』とお言いなさる。 お前は我を折って先生に従えばよいのじゃ」

 十一月三日、秋の大祭が執行され、予告どおりに王仁三郎が斉主をつとめた。なおは「そなたは式に出いでもよいと神さまが申し下さるゆえ休ませてもらいます」と言って式典には参列しなかった。十一月五日の夕拝も、なおは休んだ。「神さまがなあ、今日はわたしにお礼をせいでもよいと言いなさる。明日から代わりに先生がなされます…」従来どんなことがあっても礼拝を代行させたことのないなおであった。 五日の深夜から翌朝にかけて、本官山・和知川を中心に陸軍の大演習があった。六日朝の七時頃、金竜海の辺での激しい鉄砲の音を開きながらなおの三女福島ひさは炭をつぎに教祖室へ行った。

「はばかりながら、お水をおくれなされ」

ひさが湯呑みに水を運んでくると、なおはうまそうに飲み干しもう一杯所望する。二杯目も半分まで飲んだ。水でさえ「もったいない」と言ってむさぼらずほんののどを、湿らす程度のなおであるのに。

 ひさが驚いて言う。「教祖さん、えらいことお水をいただかれますなあ」

「はい。えっとのどが乾いていたので、大変おいしかったわいな。神さまのお恵みを心ゆくまでいただいて、もったいないことじゃった」

「足をおさすりしますさかい、どうぞ横になっとくなはれ」「おおきに。その前に手水(ちょうず)に行かせてもらおうかいな」

 ひさがなおの手を引いて厠に供した。このとき、ひっきりなしに聞こえていた鉄砲の音がやんだ。攻撃軍が敗退し防衛軍が本宮山で勝利を占めた瞬間であった。廊下を戻る途中、なおは空(から)えずきし、ひさの腕にもたれかかるとみる間にくず折れた。

 急を聞いて王仁三郎、すみ、直日、役員信者らが駈けつける。あまり楽そうな顔なので王仁三郎を除いては、これが教祖の臨終の姿と悟った者は誰一人いなかった。

「きっと艮の金神さまがちょっとのあいだ、肉体からお出ましになったのじゃ。そのうちお帰りになるじゃろ」と誰かが仔細ありげ言うと、みなが素直に納得した。これまでもこれに似た状態がときどきあり、「神さまがいろんな所へ連れて行って下さる。居ながら諸国漫遊をさしてもろてます」となおは嬉しげに語っていたのだ。

  立替えの起こる前になおが昇天するはずがない。ともかく艮の金神さんに早くお戻り願はねは不安である。昏睡のなおを囲んで祝詞の声が湧き上がった。

 午後になると王仁三郎はしぶる役員たちの尻をたたいて、各地に「教祖危篤」の電報を打たせた。なお昇天の模様は、『神霊界』の教祖号や『星田悦子日記』にくわしい。なおは六日午後十時三十分、静かに安らかに息を引いていった。享年八十三歳。

  その苦難の生涯にふさわしく、天保の大飢饉のさなか、悪病の猖獗(しょうけつ)した天保七年(一八三六)に生をうけ、米騒動とスペイン感冒に動乱する大正七年(一九一八)に没したことも、奇しき因縁というべきか。

  王仁三郎の部屋から犬の遠吠え式の泣き声が流れてくる。何が何でも泣く気なのだろう。このときの王仁三郎の泣きぶりは、のちのちまでも潜り草になるくらいだった.急に襖があいて、すみが立ちはだかった。大の字に畳に伏して号泣中の王仁三郎を見下ろし、激しい調子でどなりつける。

「この男、なにしとるんじゃいな。そんなどこかいな なした男やい、この男は…」

 王仁三郎はびくっとして坐り直し、涙と水鼻でだらしなく汚した顔をしゃくり上げる。「もうとまらへんわい、おすみ。泣かしてくれやい」

「ど阿呆が。先生が立ち上がらんでこの大本はどないする気じゃ」

すみの勢いに押されて立ち上がると、女房を押しのけ、大股で教祖室へ出て行く王仁三郎であった。なおの死が教団に与えた混乱ははかり知れぬほど大きい。しかしやがてなおの死も神の大きな経綸の一段階であることが理解されてくる。「種まきて、苗が立ちたら出てゆくぞよ。刈込みになりたら手柄さして元へもどすぞよ」「ほのぼのと出てゆけば心さむしく思うなよ。力になる人が用意してあるぞよ」 

 この筆先の一節一節が、信者たちの胸に深くしみ通った。なおの昇天した十一月六日のこの日、五年にわたる世界の戦が実質上矛をおさめた日となった。まるでその朝の本宮山攻防戦がそのひな型を演じてくれたように。五年間ドンドンガンガン騒ぎ散らした欧州戦場が急に鳴物を禁止したのは、なおの死に対して世界が謹慎哀悼の意を表したかのごとくである。

 昇天の五日後の十一日、ドイツと連合国の休戦協定が調印され、第一次世界大戦はおわる。『神霊界』十一月十一日号の「編集室より」に「世界の悪神の首領(かしら)は露国の王を捨ててカイゼル(ドイツ皇帝)に憑って荒び廻っておりましたが、過ぐる三日(次号で十一月一日と訂正)からウイルソン(米大統領)に憑りました、と今後の世界情勢を示唆する記事が掲載された。

  十二月二日は王仁三郎に艮の金神の神懸りがあり、次の筆先が出された。

 「旧十月三日、新の十一月六日の五ッ時、神界の経綸が成就いたして、今度の世界の大戦争をちょっと止めさせて、その晩の四つ時(十時三〇分)に天からのお迎えで出口なおは若姫岐美命(わかひめぎみのみこと)の御魂とひきそうて天へ上りたぞよ。これからは天の様子も明白(ありやか)に判り出すぞよ。出口なおの御魂は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)殿の宿りた身魂の三代直日にうつりて直霊主(なおひぬし)命となり地の神界の御用を致さす経綸が成就いたしたから、これからの大本の中はこれまでとは大変りがいたすぞよ」

 

神と人・大本弾圧

 

神というと反発を感じ、アレルギーを起こす

近代人の大半はそれだ

目に見えないもの

手に触れ得ないものは存在しないと考え、

実証できないものはすべて信じようとしない

迷信を否定するのは賛成だが

実在の奥にあるものへの信まで迷信と同一視しかねまじいのはお粗末至極だ

 

人間力には限界があることに気づかない人はそ

ういうお粗末さと通じ合うと言えるのではないか。

だいいち、本気になって〝神″ について考え抜いたあげく否定的態度をとるというのなら結論の是非は別として、一応のハナシはわかる。だが、思いつき程度の思考操作で「わたしは無神論者だ」などというのは問題にならない。

"神"をまるでお化けのたぐいか何かのように考えている人も問題外だ。…人間のもつ知能力で考え尽くせるものでないところに"神″ を示そうとする者の困難さがあるといえよう。軽率に神を否(なみ)するものはその困難さの前で自分をゴマカしているにすぎない。

やがてしかしゴマカしきれない時機がこようとしている。"大本″ ほそれを予示しつづけてきた処のようだ。徹底した弾圧もまた真理を説くものへの憎悪の激しさから発したに達いないが、その"被弾圧″ が'おのずから日本帝国の壊滅の"型″ となった。 

 

宇宙と神 

神といえば みなひとしくや思ふらん 

鳥なるもあり虫なるもあり(古歌)

 神といっても多種多様で、まさに八百万…。キリスト教的なゴッドもあれば、ギリシア神話に出てくる感情ゆたかな神もある。知恵授け 火難・水難よけ、縁結び、金儲け、病気治しの神…さらに専門化して眼病、胃腸病、皮膚病などを治す神…。また、人が死ぬと神社にまつり上げたり、動物霊の崇りをおそれて神としたりする。

 それでは、大本でいう神とは何か。人に憑ったり予言を吐いたり、まことに面妖不可思議な大本の神について説明をしておく必要がありそうだ。 王仁三郎はおもしろい表現をしている。

「主(主神)は澄にして澄みきり給うて、言(結)うに言われず、説(解)くに説かれず、これはおやじのハゲ頭のようなものであります」

… 髪(神 を結う、解くにひっかけて笑わせながら、ちゃんと勘どころを教えている。人間の言葉で説明のつくものには限界がある。たとえばゼロという数値などどんなふうにわかりやすく説き得るだろうか。無限の果てのまた無限などということを説明できるだろうか。もともと人間の頭脳力をはみ出した存在をどうして学問や知識で説き尽くすことができよう。

「太平洋の水をぜんぶインキにして書きつくしてもなお神徳について完全に伝えることはできない」と王仁三郎も言っている。私にできるのは神についてのある程度の概念を伝えるぐらいである。

「宇宙の本源は活動力にしてすなわち神なり。万有は活動力の発現にして、すなわち神の断片なり」 

 これは大本の神観・宇宙観をもっとも要約した王仁三郎の言である。宇宙の造化の働き、言いかえれば大自然の生成化膏の力こそ、神そのものであり、万有はその力によって生れたもの。

 世の中に真の無神論者は少ない。自分でそう思いこんでいるだけである。今日までの宗教の及ぼしたさまざまの弊害を見て反宗教的思想になり、反動的にそんな宗教の押しつける神を認めようとしない人たち。しかしどの宗教がどうあろうと神の実在に本来なんのかかわりもない。神の概念が自分の気に入らないからその存在を認めたくない人たち 宗教者でありながら信仰の対象として必ずしも"神″ をもたない人たちもあるが、宇宙の大理法を認めずして宗教者であることはできない。

       にもかかわらず人格的な神を想定して頭から迷信だと笑う。それでいながら自称無神論者の多くは心の奥底に何らかの畏れを持っている。顕在的知性は承服したがらぬのに、潜在的霊性はちゃんと承知しているのだ。

 「宇宙の活動力そのものを神」とするならば、それをも否定する無神論者はなくなろう。しかし当然彼らは反問する。

「宇宙の造化の働きは否定できぬが、それをことさら神と呼んで拝む対象にする必要がどこにあるか。造化の働き、大自然の生成化育の力で充分じゃないか」

 問題は言葉の持つ限界である。宇宙の活動力には厳然たる意志があり、その意志の向かうところ、まことに不思議な作用を及ぼし現象面にあらわれる。"宇宙の活動力" というのも比較的正しい観念をあらわすために止むなく使った言葉に過ぎぬ。

 たとえば、神に似せてつくられたという"人″ であるが、「二本足で歩く噛乳類」の説明語ではかえって納得できまい。

 "母″ といえば誰しもそれなりに母のイメージをつかみ得るが、 「私を生んだ女」という最も適確な言葉におきかえれば、ぎこちなく冷たい響きがする。”父〞を称して「私を生んだ女に生ましめた男」というに至っては…

 "神"という言葉のかわりに〝宇宙″ といってもいいわけだが、いわば霊魂の脱出した死体を見るようで、形骸はわかるが神のもつ深遠微妙・霊妙不可思議なるカを伝えにくい。もっと深くその本性をあらわす適切な言葉が造り出されぬ限り、ともかく"神″ でごしんぼう願おう。

 大本でいう"神″ の定義の一は、 「天地万有の創造主」である。天も地も人類も動植物も鉱物も、宇宙間のいっさいをお造りになった存在である。

 もちろんこの神を造った他力はないが、もしあるとするならその他カが神であり、その他力を造った別の大他力をありとせば、その大他力こそ神である。神は造られたものでなく万物を造った意志的存在…これを真の神と呼ぶことにしよう。

 この定義から言えば、八百万の神霊群とか人間や動物がカミとなったものはその神から区別されねはならぬ。もう一つの神についての定義は、「無限絶対無始無終の宇宙の大元霊」・・・それはどこに存在するのか。宇宙の内側とすれば太陽か、月か、地球か、はた別の星雲なのか。地球とすればどこの大陸に? それとも神社・仏閣か家庭の神棚の中に?  

 しかし宇宙の中のどこかの一点に在るとすれば宇宙と神は相対的な関係となり、”絶対″ という定義に反してぐあいが悪い。

 視点を他に転じてみよう。ものを考え喋るワタクシは私の肉体の外から指令を発して私をあやつるのではあるまい。では、私は肉体のどこに頭脳か、心臓か、神経か、胃か、それともはかに…?

 否々、ワタクシは私の肉体のどこかにちょこんといるのではない。ワタクシは私の肉体と合一状態にある。同様に神は宇宙と合一状態にあるからこそ宇宙に対しても絶対であることができる。神の活動力は宇宙に編在しているからだ。 それでは、宇宙はいつできたか。宇宙時代といいながらわかっているつもりで日に日に認識を改めねばならないのが宇宙である。が今日の科学の教えるところでは宇宙ができて百億年(王仁三郎説は五十六億七千万年)、地球ができて四十五億五千万年、生物が発生して六億年という。人類らしきものが発生してわずかに二百万年。その人頬にとっては百億年という過去の時間は始めがないにひとしい。 始めがなければ終わりはない。無始無終である。

 宇宙の大きさは?  百億光年の広がりをもつと科学は教える。一光年は太陽の光が一年間休みなく突っ走る距離を指す。光の速度は秒速三十万キロ、一秒間に地球を七まわり半するスピードだ。地球と太陽の距離は一億五千万キロ、人間がオギャーと生まれた瞬間に新幹線並みの時速二百キロで一秒の休みなく太陽に突っ走るとすれば七十五万時間、到着したとき、八十五歳になる勘定だ。

 それを光の速度でもってするなら地球に到達するのにわずか八分十九秒. 一年間走れば九兆四千六百億キロ進む猛スピードである。その一光年を一単位として百億倍が宇宙の広がりというのだからまさに無限。人類が宇宙を征服したなぞとはおこがましいかぎりだ。

 その宇宙の発生など、人智で知れる道理はないが、王仁三郎は高熊山に坐して神から霊視させられたという。その著『霊界物語』(八三巻)で王仁三郎は詳説しているが、今は最少限の紹介にとどめよう.