昭和二十年(一九四五)乙酉(きのととり)

八月六日 広島に原爆。 王仁三郎は昭和十九年秋から「広島はひどいめにあう」と語っている。四月には、広島から中矢田農園に王仁三郎を訪問した信徒に「なにをぼやぼやしとるか」と叱り、「広島は危ないから、帰ったらすぐに疎開せよ」と指示している。 (「おほもと」昭和五十五年五月号五十一頁)。

疎開指示の話は多い。広島原爆のことは、明治三十三年旧十一月十七日の神諭(昭和四十四年『大本神諭」第二集)にも、暗示的に書かれていた。

「…この出口には、どんな夢も見せてあるぞよ。出口の屋敷に蜂が土手になりて囲みた夢みせてあろうがな。天に夜行きて、天にのぼりたちてありたことあろうがな。天につまりておろうがな。これは正真で、広島を立ちて戻りたことあろうがな。唐土の鳥がわたらん先に、やれやれ帰りたと申したことあろうがな。みな都合の夢でありたぞよ。はやく世の立替えをいたして、やまと魂にもどきんと、日本の国がなくなるぞよ。」

広島原爆関連を「大本七十年史』(下巻六六二頁)から紹介すると、「火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」「東洋に一つおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている』 

「昭和十九年に面会にきた広島の信者には、『戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ』と指示。『広島は戦争末期に最大の被害を受け、火の海と化す。…そのあとで水で洗われるんや。きれいにしてもらえるのや』

敗戦直前 出口栄二著「大本教事件」(一九七〇年三一書房)二五一~二頁。