本預言の項目は、出口王仁三郎聖師の預言について優れて整理されている出口三平氏の資料を基に作成しました。その資料は、霊界物語をはじめとする出口王仁三郎聖師の著書、木庭次守氏や出口和明、大本資料など多くの諸氏・団体の著書出版物を出典としています。

そこに、最新の研究・発見成果を積み上げて、体系的なものに作り上げていきます。皆さんの新しい発見があれば、出典とともに御教示ください。必要により加えさせていただきます(出口恒)

 

王仁三郎預言資料年譜将来する預言.

凡例一、王仁三郎に関わる預言類を編年的に集めた。二、なるべく原文を抜率引用紹介し、出典箇所を記した。三、紙面の都合で省いたものもある。王仁三郎の預言をどう理解するかで、追記する幅もひろがる。基礎作業のひとつである。(出口三平)王仁三郎預言資料年譜


明治四年(一八七一)辛未(かのとひつじ)

八月二十七日(七月十二日)

上田喜三郎(出口王仁三郎)生誕。

十二月二十七日 祖父吉松帰幽。祖父は孫が「天下に名を顕す」と遺言。(「故郷乃弐拾八年」『神霊界」大正十年二月号)

 

明治二十一年(一八八八)戊子(つちのえね)

この年本田親徳、八木島(八木)で出口直に、十年後の王仁三郎との出会いを予言(「大本教の活歴史」

-大正二年十月、『出口王仁三郎著作集」五巻)

 

明治二十五年(一八九二)壬辰(みずのえたつ)

二月三日(一月五日)

出口直、帰神状態に。みろくの世とみろくさま(王仁三郎)の出現を予言。日清、日露、その後の世界大戦を予言。「三せん世界一同に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮の金神が現はれて、世の立替を致すぞよ。世の立替のあるといふ事は、何の神柱にも判りて居れど、何うしたら立替が出来るとという事は、判りて居らんぞよ。九分九厘までは知らせてあるが、モウ一厘の肝心の事は、判りて居らんぞよ。三千世界の事は、何一とつ判らん事の無い神であるから、淋しく成りたら、綾部の大本へ出て参りて、お話を聞かして頂けば、何も彼も世界一目に見える、神徳を授けるぞよ。…この世の鬼を往生さして、外国を、地震雷火の雨降らして、○○○ねば、世界は神国にならんから、昔の大本からの神の仕組が、成就致す時節が廻りて来たから、苦労はあれどバタバタと埒を付けるぞよ。…からと日本の戦いがあるぞよ。此のいくさは勝ち軍、神が蔭から、仕組が致してあるぞよ。神が表に現れて、日本へ手柄を致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一と戦があるぞよ。あとは世界の大たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。日本は神国、世界を一つに丸めて、一つの王で治めるぞよ。そこへ成る迄には、なかなか骨が折れるなれど、三千年余りての仕組であるから、日本の上に立ちて居れる守護人には、チツト判りかけたら、神が力を附けるから、大丈夫であるぞよ。…此事判ける御魂は、東から出て来るぞよ。此御方が御出になりたら、全然(さっぱり)日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光輝く神世になるぞよ。(「初発の神論」明治二十五年正月、「神霊界』大正六年四思すから)「…明治二十五年の正月元旦に、国常立尊が愈々ミロクの世が来ると云う事を御知らせになった。是は明治三十年からと云うとう事で、明治三十年に神界の世の立替をする。そうしてミロクの世、神代が地上に来る、と云うことを書いて在るのであります。…所謂弥勤の出現と云と事は、霊体を以て現われられたのを、時節到来して、ここに或形体を持って、此の世に現われたのでありますから、明治三十年からは、弥勤の世になって居るのであります。(高熊山に至る王仁三郎入道より弥動の世に。「弥勤の世に就いて」大正九年九月十五日、王仁三郎の講和から。大正九年九月二十一日号)「出口直に明治二十五年に申してある事、此の大望な経論(しぐみ)の致してあることを、世界に一人知りて居ると、言ひ聞かして在ろうがな。…」(王仁三郎=神の経論を知る者の出現を予言。「神霊界神諭」明治三十一年十二月二十六日、「神霊界」大正六年十一月号)

 

明治二十六年(一八九三)癸巴(みずのとみ)この年出口直、日清戦争などを予言。

次の文は当時の信者・四方すみの回顧談。

「…明治二十六年の事ですが 大本開祖「来年になると支那という国と日本は戦争をせねばならん」と仰有る。

すみ「支那って何処ですかいな」

開祖「何処かわしも知らんが神様が日本は支那と戦争すると仰有る、そして戦は日本の勝ぢゃと神様が仰有る』

すみ「へえ、来年も戦争するのですか、一体その支那ってどんな国ですか」

開祖「さあわしも知らんが、ともかく外国ださうや、何でも日本よりはどえらい大きな国ぢゃと神様が仰有るが、わしにもサッパリわからぬ』

開祖様も支那がどんな固で、何処にあるのかサッパリ御存じでない、

「信濃の固というのもありますさかい、その辺だすやろ』という様な事に二人の話はなって了ったさうですが:・。

その時にまたこんな事を仰有った、「福知山に営所(兵営の事)が出来ますそうです。そして舞鶴に鎮台が出来て、あの海には軍艦が浮ぶ様になるさうです、福知、舞鶴、外国十里四方は宮の中、綾部末で都と致すぞよ…と神様が仰有る」

すみさんはすっかり面食らってしまって、何がなんだか薩張りわからぬ。大体支那と戦争するとか、福知山に営所が出来るとか、舞鶴に鎮台が出来て、あの海に軍艦が浮かぶ様になるとか サッパリ訳の判らぬ事ばかりであります。

 

その当時、そんな話はないどころか、その気も無かったから、判る道理がない、おすみさんが吃驚したのも無理はないと思います。

それから又「おすみさん、本宮山に天の御三体の大神様のお宮が建つそうです、神様がさう言っていられます」

「ええ一体何時建つんですか」『もう直です』

寒い最中にも一重物を着て倉の板の間にいる人がこんな事を云うのです。おすみさんやさかい聞いているのですが、他の者なら一笑に附して顧みてもくれなかったでしょう。ところが二十七年に支那と戦争が始まって二十八年に日本が勝って了うた。福知山には連隊がおかれ営所が出来たし、舞鶴は軍港になり軍艦が出入りする様になった。

本宮山にも今はその礎石丈が残っているが、お宮が建った。何も彼もお言葉通りにちゃんとなって来た。おすみさんはこのお話を聞かして貰うて、その通りになったのを見て愈々本格的に入信されました」(「開祖さまの足のあと」「神の国」昭和十年一月号)

 

「…八木に居りた頃、明治二十六年の五月頃に、来春四月から唐(清)と日本との戦争が在ると御神示(おんさしず)ありて、コンナ時節に戦争(いくさ)と言ふ様な事は無いと、皆が申して居りたなれど、違い無く戦争(いくさ)、明治二十七八年は大戦争、明治二十九年の大洪水も、神様から聞いて居りましたから、福知山の青木さんに、今年は大暴風雨(おはあらし)が在りますげなと、明治二十九年春申して置いたが、えらい大荒れが在りました。:::」(出口直の日清戦争や福知山大洪水の予言。

 

「神霊界神諭」明治三十六年閏五月二十三日、「神霊界」大正八年七月一日号)「明治二十六年に出口直に露国から始まりて大戦(いくさ)が在ると申して在らうがな…日本に手柄を致さして世界をおさめさせる・・・」(出口直の日露戦争予言。「神霊界神諭」明治三十二年正月、「神霊界」大正八年六月十五日号)

 

明治二十七年(一八九四)甲午(きのえうま)

八月一日日清戦争はじまる(~二十八年四月)
出口直、七月に「激烈な御筆先」を出す。この筆先自体は残っていないが、後で何度か言及されている。「明治二十五年から口と手とで知らしてある実地の事件(こと)が、世界の片端から浜辺から始めるぞよ。…遠国(えんごく)から始めて段々外国は甚い事があるぞよ。

明治二十七年の七月に、激烈(ひど)い御筆先が書かしてあるが、外国の罪稼(めぐり)の甚い所には惨烈(ひど)い事があるぞよ。今度二度目の世の立替は、国の借銭、所々の身魂の借銭済(しゃくせんなし)であるから、身魂が悪いと働きをして居る国土(くに)からは借銭済しを始めるぞよ。遠地近地(とおくちかく)の区画(へだて)は無い、罪繊(めぐり)の多大(ひど)い所には惨烈(ひど)い事あるから、遠地(とおく)から始まりて段々近所へ在り出すから、近所(ちかく)は無いと油断(きゆるし)は些とも成らんぞよ。国々、所々、家々に身魂の借銭の在る丈の事は、何ンでなりと借銭を皆済(すま)して了はねば、世の元の荒神の御揃になりて御守護あり出すと、中々世界の混雑と成るから、大峠と成る迄に改心を致して、身魂を磨いて居らんと、大峠越すのが辛いぞよ」(「神霊界神諭」大正四年旧五月四日、『神霊界』大正七年一〇月一日号)

 

明治二十八年(一八九五)乙未(きのとひつじ)

十一月 出口直、日露戦争・世界大戦の予言「…魯国(ろこく)から始まりて、世界の大戦(おおいくさ)に成ると云ふ事が、明治二十八年の十一月に、出口の手で書かして在るが、時節が追々と出て来て、疑ひの雲が晴れ行くやうに成りたぞよ。永い間の大きな経綸であるから、申した事に遅し速しは在る事も在るなれど、一度申した事は何も違はん、其の通りが出て来るのじゃぞよ」(「神霊界神諭」明治三十六年間五月二十三日、『神霊界」大正八年七月一日号)

 

明治三十一年(一八九八)戊成(っちのえいぬ)

旧二月九日 王仁三郎、高熊山入山。王仁三郎の預言的世界がここで懐胎される。「…過去、現在、未来に透徹し、神界の秘奥を窺知し得るとともに、現界の出来事なしどは数百年数千年の後までも知悉し得られたのである。しかしながら、すべて一切神秘に属し、今日これを詳細に発表することのできないのを遺憾とする」(『霊界物語」一巻一章「霊山修行」。大正十年十月)

 

四月末~五月 はじめ王仁三郎は静岡の稲荷講社総本部に長沢雄楯を訪ねる。

本田親徳の「丹波より十年後、一人の修行者があらわれ、丹波から道がひらける」との預言的遺言を聞く。

「本田師の遺言には、『十年の後に到って、丹波より一人の壮年修行者が現われてくるから、其者が来てからでないと斯道は拡まらない。亦た丹波は、日本の始めであって、皇祖の現われ玉うた土地であるから、本教は丹波から拡まる」との論示でありましたが、貴下は本田師の仰せられた人物に匹敵して居るから、貴下が師の大志を継ぐ可き人に相違ないから…」

(「本教創世記」明治三十七年二月四日筆。「出口王仁三郎著作集」一巻。霊界物語三十七巻二十章「仁志東」にも書かれている)

初夏 王仁三郎は大阪へ初宣教に。十年間の親難辛苦を神人に預言される(霊界物語三十七巻十三章「煙の都」。「初陣」大正五年、『出口王仁三郎著作集」五巻)

高熊山修行の際、神から十年間の修業を告げられたととれる次の文章もある。

「余に改めて教え諭された事が有るから、一寸記載する次第は左の件である。

「汝、此の大業を遂成せんには、数多の年月を要すベし。其の聞には千辛万難を排して進まざる可らず。十年の後に至って、汝始めて宇宙の大真理に接する事を得ん。其の聞には、前途に峻坂を見る事あるべし。数多の敵になやめらるる事有るべく、大妖魅に接して大苦難に逢遇する事有るべし。入獄する事有るべく、精神的自殺を遂ぐる事有るべく、大疑問に包まるる事も有るべし、然れども、汝屈する勿れ。汝をして大業を遂成せしめん為に、千辛万苦を与えて、汝が真心を練らしめ、生ける神となさん為の天意なれば、不屈不撓の精神を持しつつ、真理を求むる方向に向かって猛進すべく、十年の修業成りて汝の意志始めて発揮せらるるの域に達すベし。云々」。余は、以後此の神示は一刻も忘るる事能わず。事に接し物に触るるに従いて、自省の力となしたりき」

(「本教創世記」明治三十七年一月十三日筆。『出口王仁三郎著作集一巻)夏 王仁三郎審神となり石田小末を神主にして男山八幡の小松林の神霊懸り、日露戦争を預言。(「大本教の活歴史」大正二年十月。「出口王仁三郎著作集』五巻)

 

明治三二年(一八九九)己亥(つちのとい)

十月 王仁三郎、静岡の長沢雄楯のところで星亨と会談。神懸りにより星の横死を予言。星は明治三四年六月二一日に刺殺される。(「大本教の活歴史」大正二年十月。『出口王仁三郎著作集』五巻)

 

明治三十三年(一九OO)庚子(かのえね)

 

七月四日 一連の出修はじまる。冠島開き。八月二日、沓島開き。後記するように、霊的、預言的なものとなる。
八月「三千世界の大神劇」(霊界物語一巻十八章)といわれるように、次のように芝居用語で預言がなされることが多い。

「艮の金神の筆先は世界の事を、何も彼も皆前に書き置かせるから、昔の筆先をセングリ出して見て下されたら其通りが世界から出て来るのじゃぞよ。世界の混雑、今では治まりたようなが、中々治まりたのじゃないぞよ…世界は今が三番叟じゃぞ。其の心得で居らんと、世界の人民は難渋致す事が在るぞよ。世界の大望は未だ是から初段が始まるので在れど、コンナ経論(しぐみ)は萬の神様も御存じ無いこと、チヨットの戦ひでは治まらんぞよ。…」(「神霊界神諭」明治三十三年八月五日。『神霊界」大正八年六月十五日号)

 

明治三十四年(一九O一)辛丑(かのとうし)

四月十八日 王仁三郎、静岡の長沢雄楯のところで日露戦争の詳細な予言。

「明治三十四年四月頃だったと思います。日露戦争のおこる機運が濃厚となり、必ず早晩あるというところから、これを神がかりで決する必要がおこりました。それで出口さん(王仁三郎)が四方平蔵氏他一人と三人で私の宅に来られ、日露戦争が開戦になる時期について神示を乞うことになりました。

出口さんが神主になり、私が審神者で神さの御降臨を願った。その時おかかりになった神さまのおおせに『この年の八日にはおこるか? それが延びたら明治三十七年の二月になる.三十六年の七月頃からだんだん開戦の機運が濃くなり、いよいよ翌年二月に始まる。戦いは連戦連勝であるが、いかんなことには軍艦七隻が沈没を免れない。

それから平和克服は八年の九月になる』とのことでした。そこで私は『しからば日本の戦勝の結果として得る利益はどれくらいか」とおうかがいしますと、「支那の海岸のごく一部と朝鮮全部、樺太南部を日本が受ける』というお告げでした。約二時間にわたって種々お伺いしましたから、露国作戦計画から外交談判にいたるまで、詳細にお語り下さいました。その時におかかりのご神霊は、岩清水八幡宮にお仕え申すご神霊がおいでになさったのであります。

いまだかつて神がかりで、こんな大戦争を数年前に予言し的確に中ったということはないのであります。…」(「出口師の大預言:数年前すでに日露戦争を詳細に…」長沢雄楯「神の国」昭和十年五月号)

 

初夏 三年後の日露戦争を出口直、沓島で預言。

「…その年(明治三十四年)の六月の八日に教祖は会長澄子其他四十人計りの信者と共に沓島(釣鐘岩)へ渡り、其水を海に投じ、此の水が世界中を廻った時分には日本と露国との戦争が起るから、どうぞ大難を小難に祭りかへて貰ふやうに、元伊勢の御水と出雲の御水と、竜宮館の御水と一所にして竜神さまにお供えするといって祈願をこめて帰って来られたが、それから丁度三年目に日露戦争が起こったのである」(「霊界物語」三十八巻二十八章「金明水」。他に、同十六章「禁猟区」)

 

明治三十六年(一九O三)癸卯(みずのとう)

九月十日 王仁三郎「いろは歌(その二)」(『瑞の神歌」に収録)を書き、日露、第一次、第二次の大戦などを預言。科学技術文明の発展も預言。「神霊界」大正六年十一月号掲載。本誌八十五頁以降に全文紹介。

「ろこく斗りか亜米利加迄が、末に日本を奪る企画。金と便利に任せつ、。:・にしに亜米利加、北には露西亜、前と後に敵ひかへ、四方海なる日本国。…よ言どころか確言ばかり、一分一厘違やせぬ。誠の心で聞くなれば、ヒヤリヒヤリと汗が出る。…むかしの神の仕組まれし、最も便利な世が参り、蒸気、電気の働きで、三千世界を近よせる、交通機関も完備して、千里万里も夢の聞に。…」などなど。

 

十月二日 この日に王仁三郎が執筆した「たまのいしずゑ」に「予言が的中したりとて、病が全快したりとて、必ず、奇跡をもって神となすなかれ。…」などの文章がある。(『出口王仁三郎著作集』一巻)。

 

この頃を回顧した王仁三郎の回顧歌集(昭和八~十年『百千鳥』)には、「今に見よ三千世界が返るぞと朝から晩まで寝言言ひをり」「そのころの綾部の大本は狂人の集会なればせんすべもなし」など、日露戦争直前に「立替えちかし」と狂い立つ役員の様子が描かれている。

出口直の筆先も、明治三十六年が一番多い。「…露国の仕組は極悪の守護神が太古(むかし)から仕組をして居りての今度の大戦争(おおたたかい)。今後の戦争始まりたら日本の人民、ここまでの心で居りたら、無造作(いちころ)に敗けるぞよ」(「神霊界神諭」明治三十六年十二月二十八日。『神霊界」大正十年二月一日号)


明治三十七年(一九〇四)甲辰 (きのえたつ) 

ニ月十日 日本、ロシアに対して宣戦布告。

「明治三十七八年ごろは日露戦争の勃発で、四方平蔵、中村竹造ら十二人のいわゆる幹部役員はいよいよ世の立替で、五六七(みろく)の世になる、それまでに変性女子(注・・王仁三郎)を改心をさしておかねばお仕組が遅れると(『霊界物語』第三八巻第二十二章)と、終末、大峠を待望する立替信仰で、王仁三郎の活動を妨害。

王仁三郎は中村に、「日露戦争が起こっても、それくらいで世界の立替ができるものでない。まだまだ世界の大戦争があり、それから民族問題が起こり、いろいろ雑多な事が世界に勃発して最後にならねば立替は出て来るものじゃない。ここ十年二十年で、そう着々とらちがあくものか。

今の内にチツと目をさましておかぬと、この戦争は済んでしまふなり、立替は出て来ぬなりすると、まだ嘘言(うそ)ぢゃったといって信者が一人も寄りつかなくなってしまう。…」(同右)など注意する。

七月十二日 この日の筆先は、当時の十二名の役員達への警告とともに、大正十年立替説の根拠にもつかわれた、問題の筆先。

「…今の大本の役員信者は、今度の戦争(たたかい)で世が根本から立替るやうに信じて、周章(あわて)てゐるなれど、世界中の修斎(たてなおし)であるから、さう着々とは行かんぞよ。今度の戦争は門口であるから、其覚悟で居らんと、後で小言を申したり、神に不足を申して、折角の神徳を取外す事が出来いたすぞよ。

…今度の戦争で何も彼も埒が付いて、二三年の後には天下泰平に世が治まる様に申して、エライ力味やうであるが、そんな心易い事でこの世の立替は出来いたさんぞよ。今の大本の中に唯の一人でも、神世に成りた折に間に合うものがあるか。誤解するも自惚れにも程があるぞよ。まだまだ世界は是から段々と迫り来て、一寸の動きも取れんやうな事が出来するのであるから、其覚悟で居らんと、後でアフンとする事が今から見透いて居るぞよ

…明治四十二年までは、(注・・王仁三郎を)神が外に連れ参りて、経論の橋掛をいたす。

…明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替の正念場であるぞよ。

…明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ。明治四十二年になりたら、変性女子がボツボツと因縁の身魂を大本へ引寄して…」(「神霊界神諭」明治三十七年七月十二日。『神霊界」大正六年七月号)。

 

執筆日が王仁三郎誕生の七月十二日であることなど、出口直の筆先に擬した王仁三郎の神諭と思われる。「神霊界」発表時に加筆fれたものか。

 

明治三十八年(一九O五)乙巳(きのとみ)

五月二十七日 日本海海戦。ロシアのバルチック艦隊を破る。この二週間前の五月十四日、出口直は舞鶴沖の沓島に龍もり、二十五日に舞鶴に戻る。一連の預言的な神事であったが、出口和明「予言・確言」(昭和五三年)で要約する。

「「(明治) 三十三年六月八日に冠島参拝、七月八日に沓島開きに参りて、三十四年の(旧)四月十日に産水を投じに沓島にまいりた」(明治三十八年旧四月)

右の筆先に示すように、四年前の旧四月十日、新の五月二十七日、なおは沓島の釣り鐘岩の上に立ち、元伊勢の神水を激浪逆巻く日本海海上に投じて叫んでいた。

「この水、三年で世界へ回るぞよ。世界が動きだすぞよ」これも一つの型ではないか。…数えるまでもなく三年目に日露戦争がおこった。日本海に神水を投じてから四年目の旧暦四月十日同日から沓島ごもりが始まり、新暦同日(五月二十七日)、まさに四年後のこの日、日本海上での日露の決戦がおこなわれる。皇国の興廃この一戦にあり、日本艦隊の圧勝は、たしかに日本を露国から守ったのである」


明治三十九年(一九O六)丙午(ひのえうま)

十月一日 綾部~京都間の国鉄開通。

「二代教主(出口澄)は『先生(王仁三郎)がここの屋敷を汽車が通ると申されていたが、しばらくすると、大本の屋敷を汽車が通る様になった」と語られた」(『新月の影』)。

この種の予言は多い。戦後すぐ王仁三郎は当時田圃の真ん中だった現在の愛善苑の場所(当時、中矢田農周)に国道が走り、亀岡の中心になることを語っていた。その後山陰道の動脈・九号線が通り、現在、実際に中心化してきた。

 

明治四十年(一九O七)丁未(ひのとひつじ)

十月 出口直、筆先で世界的に大戦争が起こって行くことの予言。

「…今年の暮に成ると神界の方は大分混雑に成りて来て、来春にかけて正邪神界(しんかい)の大戦争と成りて来るぞよ。…日本の人民は露国と戦ふて勝ちて日本の光が出たと申して気楽になりて、何時までも泰平に世が治まると思ふて居るが、中々世界はソンナ甘い事には治まらんぞよ。今に世界中の大戦争に成りて来て・・・・」(「神霊界神諭」明治四十年十月十六日。『神霊界」大正八年一月十五日号)

 

明治四十一年(一九O八)戊申(つちのえさる)

三月十七日(旧二月十五日) 王仁三郎、高熊山入山から十年目。明治三十一年に預言された「十年間の修業」が終わり、京都から年末には綾部に帰る。

翌明治四十二年から、綾部神苑の整備などが、王仁三郎によって積極的に行われてゆく。

 

明治四十三年(一九一O)庚成(かのえいぬ)

四月 「十年先になりたら…」との出口直の筆先。「…世界の大戦争(おおいくさ)を一寸止めさして、次の経論(しぐみ)に掛かるから、地の神は一旦は天で守護をい_たすやうになるが、是が天地へ覆へると申すのであるぞよ。十年先になりたら、脚下から鳥が立ちて、吃驚(びっくり)をいたさな成らんから…」(「神霊界神諭」 明治四十三年四月十五日。『神霊界」大正七年十二月一日号)

「…露国が最初(もと)で、外国の悪の守護神が日本を占領仕組(とるしぐみ)を種々(いろいろ)と致して居るから露国に勝ちたと申して日本の人民が安心いたして居りたら、十年先きに成りたら脚下から鳥が立ちて、アフンと致さな成らん事が出来いたすから、日本の上の守護神どもにクドク気を注けるぞよ。」(「神霊界神諭」 明治四十三年四月十八日。『神霊界』 大正七年十二月二十二日号)

 

明治四十五年=大正元年(一九一二)壬子(みずのえね)

七月三〇日から大正元年

このころ 王仁三郎、綾部神苑内で、世界大戦の型として弓を引く。

「…『私がこうやって毎日弓を引いているのは、これは神様からの一つの型やで、近いうちに世界に戦争が必ず起きてくる。わしは神様からその型をやらされている。戦争が必ず起きるが、しかもそれは世界戦争になろうやもしれん。…』…」

(湯浅仁斎「聖師の日常は皆神業」『神の国』昭和十年二月号。『十年目の弟子』あいぜん出版に収録)

 

大正三年(一九一四)甲寅(きのえとら)

一月七日 王仁三郎、五日後の十二日に起こる桜島爆発を前知し、その神霊を高熊山に迎える。

「吾人は大正三年一月の桜島爆発を前知し、同年一月七日数十人の京阪聞の会員を伴ひ、桜島の神霊を丹州穴太の山奥なる高倉山に奉迎し、且つ神勅に依り今回の爆発は万世一系、天壌無窮の皇運の発展すべき前兆なりと予告した事がある。その後時運の進展は日に月に切迫し来って、天地諸神霊の御活動は益激甚を加へつつあるので在る。一旦は日東国の天地にも暗雲塞蔽し、桜島噴火爆発に百千万倍の大変事が起こってくる。是ぞ神諭の実現であって、世界の大峠である。…」(「皇運御発展の瑞兆」『神霊界」大正七年二月号)

七月二十八日 第一次世界大戦勃発「…明治二十五年の正月元日より、同四十五年の正月元旦まで、前後満二十年間の水洗礼をもって、現世の汚濁せる霊体両系一切に洗礼を施し、世界改造の神策を顕示したまふた。かの欧州大戦乱のごときは、厳の御魂の神業発動の一端にして、三千世界の一大警告であったと思う」(『霊界物語』一巻発端)

 

「今度の大戦争は世界中の人民の改心の為であるぞよ。万古末代戦争はつまらん物であるという事を、世界中の人民に覚らせる為の戦であるぞよ」(「神霊界神諭」大正六年旧二月九日。『神霊界』大正六年四月号)

「今度の外国の大戦争は、人民同士の戦争と思うて居ると、大間違いであるぞよ」(「神霊界神論」大正五年旧七月二十三日。『神霊界』 大正六年八月号)

七月 水のあてもない池(金龍海)の開墾作業開始。王仁三郎は水がはいることを予見していた(大正四年三月に水)。(湯浅仁斎「金龍海開掘にまつわる神秘」「神の国」昭和十年七月号など)

 

大正五年(一九二八)丙辰(ひのえたつ)

四月十三日 王仁三郎の左頬、歯蓋から神島型の舎利出現る。六月二十五日の神島聞きにつながる。

十月四日(旧九月八日) 出口直、播州高砂沖の神島に。神から預言されていた「天のみろくさま」が王仁三郎であることの啓示を受ける。

 

大正六年(一九一七)丁巳(ひのとみ)

二月 一月から刊行された『神霊界』に、出口直の筆先が、王仁三郎により神諭として継続発表される。

三月 王仁三郎、『神霊界』三月号に「大正維新に就いて」を発表。世界大家族制度、皇道経済など、-種の預言的な論調を張って行く。

六月二十六日 秋山真之、東京に大震災があると、この日を予言。大騒ぎとなる。(浅野和三郎『冬籠』「東のぼり」、『大地の母」十一巻十章「東京大地震」など)

「…秋山中将に霊眼が開けて、早くからあの大正十二年九月一日関東地方に起こった大地震の光景を見ていた。ただ、時の判断を間違えて、すぐその事が実現することと思い、時の大官連に預言警告を発した。わたしはその事を知るとともに、その誤りであることを通知し、ただちに取消すようにと電報で何度もいうてやったが、自分の霊眼を信じきっているので、なんとい、っても聞かなかった。そのとき大本におけるあらゆる御神殿の扉が、ガタガ夕、ガタガタと鳴って、大変な事であった。時を判断することを誤っているのであるから、その日が来ても何事も起こっていなかった。無論大震災など起こるわけがない。某氏は恥ずかしくて世間は顔出しもならない羽田に陥った。と同時に、大本の神さまに対して可なり大きなご迷惑をかけたものである」(王仁三郎「正夢と霊夢・霊限」『水鏡』昭和六年)

七月 「神霊界』七月号に、「明治五十五年の三月三日、五月五日」と月日を明示する神諭(本稿明治三十七年の項参照)が発表される。〈明治五十五年立替説〉(大正七年六月、浅野、友清達が唱えだす)の論拠となった。

「…明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構なであるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ。明治四十二年になりたら…」(「神霊界神諭」明治三十七年七月十二日、『神霊界」大正六年七月号)後に王仁三郎は、霊界物語三巻序文(大正十一年一月)で詳細に解説している。

「三月三日」は「三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日」のこと、「五月五日」は「月光世に出て万界の暗を照破す、これ言霊学上の五月五日」などと、内義的に解釈し、「暦学上の月日でない」としている。十一、十二月 王仁三郎、預言歌「いろは歌(その一)」(十一月三日作)、「大本神歌」(十二月一日作)を、大正六年十二月号 大正七年一、二月号に発表(本誌七十四、七十六頁に全文掲載)。「おちこちの寺の金仏、金道具、釣鐘までも鋳潰して、御国を守る海陸の、軍の備へに充つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理に成ります金山の、彦の命の御代と化り、下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る者の具と、造り代へでも足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれ。くに挙り上は五十路の老人より、下は三十五の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの速からず…」(「いろは歌」その二)などなど、日中戦争から日米戦争、ソ連参戦、太平洋戦争戦時下の諸状況が、おどろくほどの的確なイメージで預言されている。

 

「…日清間の戦ひは、演劇に譬えて一番叟、日露戦争が二番叟、三番叟は此度の、五年に亘りし世界戦、龍虎相打つ戊に、午の年より本舞台、いよいよ初段と相成れば、西伯利亜線を花道に、定めて攻め来る曲津神。力の限り手を尽くし、工夫を凝らし神国を、併呑せんと寄せ来り、天の鳥船天を蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、ここに二段目幕が開く。三段いよいよ開く時、三千余年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集まる大本の、神に仕へし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心を振り起し…」(「大本神歌」)と、戊午(大正七年)から「初段」「本舞台」と書かれ、大正六年十一月七日のロシア革命などもあり、時節切迫との緊張をたかめた。

のちに「瑞の神歌」とまとめられたこの予言文書は、午、未、申、酉年にあたった①大正七~十年、②昭和五~八年、③昭和十七~二十年、それぞれにコメントされ、読みなおされて行った。

 

大正七年(一九一八)戊午(つちのえうま)

一月 王仁三郎、正月に「教祖はん(出口直) のおからだは今年じゅうや。びっくりすな」と梅田安に告げる。(出口和明『予言・確言」一九一頁)

 

五月十日 王仁三郎、”神懸り”で「大本神歌」(二五〇首)作成。『神霊界』大正七年六月一日号、大正七年六月十五日号に発表。のちに『皇道大本神歌』(大正九年四月)として小冊子化される。「高山」批判や時期切迫を感じさせるような歌が多い。いくつか紹介する。

今日迄は一日二日と日を延ばし モウ日延さえ成ぬ処迄早今日は検眼振る間もあらざれば 何事在共神を恨めな立替が初り来れば眼も鼻も 口さへ開かぬ事があるなり天地の神の怒りは一時に すべての曲は亡び失すなり高山は今に諮問に落ち行きて 渓波(たには)は国の高山となる大本を乱す邪神は大本の 内部に潜める偽信者なり戊(つちのえ)の午の春から神界(かみのよ)は 大戦争の開かれにけり神界のたたかひ済めば現世に 続いて戦争初まると知れ世の本の神は心も急ぐなり モウ立替が迫り来たれば日の光り昔も今も変はらねど 大内山にかかる黒雲三十年の世の立替も迫りけり 後の三年に心許すな十年の後の神代に住むものは 身魂の清き人斗りなり神の国大く正しき十余り 二つの年の春ぞ待たるる

 

六月末 浅野和三郎、友清天行、松江講演で世の終末の予言講演。大正十年終末論を公表する『予言・確言』で一八五頁。

八月 「綾部新聞」大正七年八月号に友清天行「一葉落ちて知る天下の秋」の論陣。「・:そして愈々と云ふ時に、普通の人間から云へば天災地変ですが、霊活偉大荘厳を極めたる神力の大発現がありまして、大地震・大津波・大暴風雨・火の雨等によって解決されるのですが、その時死滅すべき因縁の者はみな死滅してしまひます。現在の建築物の如きも木っ端に砕かれたり、焼かれたりします。そこで初めてこの世の大洗濯ができるので、その大惨状・大混乱の光景は過去の歴史にかつてまだ無い処のものでありますから、想像も及びませぬ。…日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃はこの世界は暴風雨の後のやうな静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手している時であります。…」と時期を切った終末予言を行った。

この論は『神と人の世界改造運動』と改題されて出版(七年十二月)され、翌年四月までに七版を重ねた。(『大本七十年史」三九六頁~)十一月六日出口直昇天。第一次世界大戦の戦火が止んだその日。

「開祖様御昇天のことを王仁は神様から承って二年前から知っていた。それで貴賓館の名において教組殿を造っておいた。当時金が無くて困っていたので、開祖様はたいそう御心配なされたので、八畳の間一ぱいに取っておいた金銀貨を積みあげてお目にかけたら、これで安心したと言うて大層お喜びになされた。十年事件以来みな出してしまったが、開祖様は御安心なされて御昇天になったのである」(「開祖様の御昇天」「玉鏡」)

 

十二月二十二日 辛酉(大正十年)に王仁三郎になにかあるとの予言的な神諭。「三年先になりたら余ほど気をつけて下さらぬと、ドエライ悪魔が魅を入れるぞよ。辛(かのと)の酉の年は、変性女子に取りでは、後にも前にもないやうな変りた事ができてくるから、前に気をつけておくぞよ」(「伊都能売神諭」大正七年十二月二十二日。「神霊界』大正八年一月一日号)

「大正八年の節分が過ぎたら、変性女子を神が御用に連れ参るから徴躯(びく)ともせずに平生(つね)の通り大本の中の御用を勤めて居りてくだされよ」(「伊都能売神諭」大正七年十二月二十三日。月一日号)などもだされている。

 

大正八年(一九一九)己未(つちのとひつじ)

一月二十五日 「世界の大峠が来るまでにこの大本の中に大峠があるぞよ」(「伊都能売神諭」大正八年一月二十五日。『神霊界』大正八年二月十五日号)。

一月二十七日 第一次大本事件の日時(大正十年二月十二日)の予言。

「三千年の太平を、松竹梅の経給(しぐみ)ぞよ。辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」(「伊都能売神諭」大正八年一月二十七日。「神霊界」大正八年二月一日号)
この神諭の「九月八日」のことで、王仁三郎は、「九月八日のこの仕組とは大正十年十月八日旧九月八日に御神命降り、旧九月十八日から口述開始した霊界物語のことである」(『真知の光』昭和六年十一月五日号)と昭和六年十月十八日・旧九月八日に語っている。

また霊界物語十六巻六章、二十六巻二章、六章に辛酉と九月八日の関連が示されている。

 

七月十二日 霊界物語刊行の予言。「七月十二日を過ぎたる事なれば濁酒の売出しは止め神の造られた清酒(大江山の鬼ころし)を売り出す」(随筆」『神霊界』大正八年十一月一日号)

 

秋 友清天行、静岡で大本に反旗「今より十年以前に現れた教祖様の神論に、十年先を見て居れよ、駿河から悪神の仕組が始まりて来るぞよとの警告が在った。是が十年後の今日、同国から反対運動が起こってきたのも、実に神諭の霊妙不動なるに驚か、ざるを得ないのであります。」(「随筆」『神霊界』大正八年十一月一日号)

大正九年(一九二〇)庚申(かのえさる)

九月十五日 王仁三郎、五六七殿で「弥勤の世に就いて」の講演。

「世の終わりが近づいたという事は、基督教でも、仏教でも唱えております。それを神さまが金剛力で支えて居って、其の聞に改心させて、一人でも余計に助けたいと御骨折りになって居ります。それも知らずに『それは大正十年頃だ』とか、『十一年頃が本当だ』とか『嘘だ』とか言って騒ぎ廻って居って、『若し大正十一年に来なかったならば、我々が先鋒となって大本を叩き潰して了う』といって居る人等が在るとか言う事で、実に面白いことであります。是は全く悪魔に魅せられて居るので、神さまの事が分かるどころか、利己主義の骨頂であります。斯う云う事で、何うして弥勤の世が実現しましょうか。…」(大正九年九月十五日、王仁三郎、五六七殿で講演。「弥動の世に就いて」。『神霊界」大正九年九月二一日号)

 

大正十年(一九二一)辛酉(かのととり〕

二月十二日 大本第一次弾圧事件。「大正十年の(大本)節分祭の時に、南洋の土人がワニをもてあそんでいる映画を見せたのは、大本事件(第一次)の来る事を謎で知らしたのである」(「新月の影』)「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替え立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組」(「伊都能売神諭」大正八年一月二十七日。『神霊界」大正八年二月一日号)「…肝心の生神の居る場所へは、御伴は一人も許す事は出来ぬから、何時王仁の姿が見えぬ如に成りても、心配は致して下さるなよ。何も別状は無いから、前から筆先で知らして在る通り、神が守護いたして居るから、○○○○殿、チットモ心配は致して下さるなよ:::」(「伊都能売神諭」大正八年八月十二日。『神霊界」大正八年十一月一日号)六月十七日 王仁三郎、保釈出所。一二六日の獄中生活。

「大本十年事件の時、京都刑務所へ松村真澄氏が面会に行かれますと、聖師様が人差指で左手掌を三つ突いて見せられた。その意味が判らずにいたら、三月日に保釈出所されて『三月したら出る事を知らしたのだ』と教えられました」(『新月の影」)王仁三郎の獄中生活の一二六日は、ダニエル書第七章「かれ至高者(いとたかきもの)に敵して言を出し、かつ至高者の聖徒を悩まさむ。彼また時と法とを変んことを望まむ、聖徒は一時と二時と半時を経るまで彼の手に付されてあらん、かくて後、審判(きぱき)はじまり彼はその権を奪はれて終極まで滅び亡ん」と相応する。

一二六の数字は、出口和明氏の考察では、大正十年から大正十三年の入蒙にかけて五回現れる(『予言・確言」二四三頁)十月十八日、霊界物語口述開始。

十月二十日 午後一時から本富山神殿破壊開始。『神霊界』の大正十年一月号に、〈切り紙神示〉の紹介。

大正九年十二月十五日発行やまと新聞の記事で、ある政客が大本の正体を見破るとして切り紙を組み立てると、「さて、この二大勢力が衝突するのはいつかとみると、明らかに大正十年旧九月二十日午後一時と出る」と予言。それが時間までもピタリと当たった。王仁三郎は、霊界物語第一巻序文末尾「大正十年十月二十日午後一時」と記し、この日は国祖隠退の物語を口述している。

十一月四日原敬暗殺される。大本に第一次弾圧を加えた内閣主班原敬は、東京駅頭で良の一字を名に持つ青年・中岡良一のために刺殺される。その十時間ほど前、午前九時前後に王仁三郎は、綾部の祥雲閣で、その晩の原敬暗殺の場面を霊視し、そこにいた信者らにそのことを話している。(『翹望、外一篇』田口清吉など) 

 

大正十一年(一九二ニ)壬成(みずのえいぬ)

 

大正十一年には、霊界物語五巻~四十六巻が口述されている。予言的内容に満ちているわけであるが、ここでは処理しにくいので、別の機会にしたい。

 

大正十二年(一九二三)癸亥(みずのとい)

九月一日 関東大震災。王仁三郎はこの年の春に「今秋はじめに東京で大震災がある」と役員(寛清澄)に語っている。(寛清澄「月光記」『木の花』昭和二十五年十一、十二合併号)王仁三郎は、この日熊本県山鹿温泉にいた。

「…瑞月氏はじめ一行は、湯上がりのよい心地になって暫らく午睡に落ちた。丁度この時間に東京方面大震災の最中であったとは後にてそれと知られたのであった。

夜に入って宇知丸氏の霊界物語拝読が午の巻の第二章と第三章であったことが後で偶然かさなるは一種の不思議であったことも思い合わされた」(河津雄「西遊随行記」四。「神の国」大正十二年十月二十五日号)とあって、王仁三郎が宇知麿に命じ読ませた箇所は、霊界物語三十一巻第二章「大地震」と第三章「救世神」であった。翌日、震災の報が入った。

 

大正十三年(一九二四)甲子(きのえね)二月 

王仁三郎「錦の土産」。教団の中核に侵入してくる悪霊の働きを予言。戦後の第三次事件にも響く内容に満ちている。

「伊都能売の御魂霊園の天人なる大八洲彦命の精霊を充たし瑞月の体に来たりて口述発表したる霊界物語は、世界経綸上の一大神書なれば、教祖の伝達になれる神諭と共に最も貴重なれば、本書の拝読は如何なる妨害現はれ来るとも、不屈不携の精神をもって断行すべし、例へ二代三代の言と難も、この事のみは廃すべからず。邪神界殊に八十八派の兇徒界の妖霊は一応尤もらしき言辞を弄し、月(瑞月 王仁三郎のこと) の西山に入りたる際、得たり賢しと聖地へ侵入し来り、先ず第一に二代三代の身魂を誑惑せんと雄猛び襲ひ来るべし。然して自己の霊系の暴露するを恐れて、教祖の血統を楯に数多の信徒を魔道へ誘はんとするは、火を賭るよりも明白なる事実なり。注意すべし」

二月十三日 王仁三郎、蒙古へ。エルサレムをめざすこの蒙古入りが、聖書のヨハネ黙示録やダニエル書の一二六という数字に深く関連していたことは、先にも触れたが、出口和明氏の『予言・確言」に詳しい。

 

大正十四年(一九二五)乙丑(きのとうし)

この年 宣伝使任命、天恩郷開拓、人類愛善会発会など、建設的な一年。大正十五年=昭和元年(一九二六)丙寅(ひのえとら)十二月二十五日から昭和元年


昭和二年(一九二七)丁卯(ひのとう)五月十七日

第一次事件、大赦令により原審破棄免訴に。二代(出口澄)が御神前に礼拝していると、開祖時代に聞き馴れた艮金神の声で「まだ終わってをらぬ」と聞こえてきた。(『新月の影」)。
昭和三年(一九二八)戊辰(つちのえたつ)

三月三日 みろく大祭。王仁三郎五十六歳七ヶ月。まさに預言的な祭典。三三三と吉数がならぶ日、釈迦滅後五十六億七千万年後に終末の世を撃つ弥勤菩薩として、ちょうど五十六歳七ヶ月の王仁三郎が”下生”。大正八年から「…ともかく、大化物が満五十六歳七ヶ月に成った暁を視て居れば良いのである」(「随筆」『神霊界」大正八年八月十五日)と預言されていた。このみろく大祭が、秘密結社の結成とされ、第二次事件のときの治安維持法違反の対象となり、歴史をさらに動かすものとなる。

 

昭和六年(一九三二辛未(かのとひつじ)

この年 昭和六年は西暦一九三一で「いくさのはじめ」、皇紀二五九一で「じごくのはじめ」と、王仁三郎は冗談のように語った。昭和六年のいつごろに、この年号読みかえを語っていたか不明だが、十月十八日の講演で「本年はナンセンス的に言へば西暦で一九三一であり我が紀元では二五九一であると言って置いたが、愈々その通りになって了ひました」と語っており、九月以前であることは確かである。春雛と兜の絵は満州問題の予言。

「王仁は昭和六年の春ごろからお雛様と五月節句の兜の絵をしきりに描いた。兜は戦争が始まるという神様の謎のお示しであって、お雛様は満州に薄儀執政の立たれる謎の予告である。男雛さんは今までの型をやぶって袖をちょっと折って女雛様を抱擁している姿である。日満の関係を予告された神様の謎である。わたしはこれをエロ雛様と名づけたが、そこにも神様の謎がある。日満の包容帰一をエロ関係に象徴せられたのである」(「紙雛様と兜」『玉鏡」昭和十年三月三十日発行)

 

九月八日 本宮山に神声碑、碑、歌碑の三基を建立。十日後の満州事変を予言。「…九月八日は大本にとっては不思議な日であります。本宮山の神は一名桶伏山と言って、大本教旨を書いた大きな天然石があって、彫刻したなりで時期が来るまで伏せて置いて蒙古入りをして帰ってきても未だ起こす時期が来なかったのでありますが、その石を本年の九月に入って神様からはじめて早く建ててくれと言われて建てた。うっかりしていたが、後で気がついてみると、新の九月八日に建て上げてゐた。それから、十日後の九月十八日には満州問題が起ると予め言って置いたがその通りに起りました。又本日が旧の九月八日であって新の十八日に当たっているのも不思議であります。これから世の中は一転機を来すが詳細は既に「瑞の神歌』に発表して置いた通りでありまして、お筆先に十年或は十二年延びると神示されてある通り、いよいよ十二年延びて本舞台に入ったのであります。信者の方は緊張して神様の御心を覚って大活動をなし、これから来るべき世の大峠を越えるやうに努めて頂き度いと思ふのであります。…」(昭和六年十月十八日の講話。「真如の光」)「われかつて瑞の神歌をあらはして今日の有様つぶさに示せり」(昭和六年十一月)

 

昭和七年(一九三二)壬申(みずのえさる)一月三十日『瑞の神歌』再発刊。二月一日発禁に。
二月四日 節分祭当夜、みろく殿で「瑞の神歌」を引用しつつ「大本の経綸と満蒙」を講演。「…この満四十周年に際して、神さまが予て御警告になってをりましたシベリア線を花道とするということがいよいよ実現してきたのでありますから…」(「大本の経論と満蒙」『神の国』昭和七年三月号)昭和八年(一九三三)癸酉(みずのととり)一月二十六日 旧正月元旦を期して「大本」を「皇道大本」名に復活。

二月一日 亀岡天恩郷内に中之島梓亭(弓場)完成。明治四十五年以来、王仁三郎弓を引く。戦争の予言か。二月四日 王仁三郎、節分人型行事中、自ら太鼓を打ち七五三調を五六七調に。速佐須良姫として瀬織津姫の潔斎行事の先頭に。閉塞してゆく時代への予言的行為とも受け取れる。

三月二十六日 みろく大祭を期し国体闡明運動。「三千年の神の経論の開け口いよいよ日本は非常時となりぬ」(「歌日記」『明光」八年五月号)十月四日(旧八月十五日) 霊界物語「天祥地瑞」口述開始。「天祥地瑞」の持つ預言的要素については、本誌創刊号所収「昭和神聖会と霊界物語『天祥地瑞』(出口三平)に。

 

昭和九年(一九三四)甲戌(きのえいぬ)七月二十二日 

昭和神聖会発会式を東京九段軍人会館で開催。この年 昭和六年から十年にかけ、特にこの昭和九年に全国に王仁三郎の歌碑を建立。


昭和十年乙亥(きのとい)

このさき戦争は必至「『戦争があるとか無いとか、また景気が好くなるとか好くならないとか、新聞や雑誌または単行本によって人々が迷うておりますが』と聞く人があるが、結論は既にきまっている。瑞の神歌によって神示されている通りじゃ。何も迷うことはない。断固としていったらよいのじゃ。よくなるようで、それは一時の現象か、または策謀によるものであって、次第に悪く次第に迫る道程に過ぎない。八岐の大蛇の迫りきたってただ一つ残された園、奇稲田姫なる日本を併呑せんとする事は免れ得ぬことになっている。いろいろの宣伝や迷論に迷うては取り返しのつかぬことになる。一路神示のままに遁進することじゃ。…」(「大和魂」『玉鏡」)

 

二月七日 吹雪の中、穴太、神聖神社鎮座祭。「真知の光」昭和十年二月号記事に、「…四十年来、旅行、或いは祭典に臨席の日など絶対に雨、風、雪といふものがなかったのであるが、今日の大吹雪は神聖運動に従事する者にとって一つの暗示と警告とである」との王仁三郎の挨拶要旨が記されている。

 

十二月八日の第二次大本事件にいたる王仁三郎の言動のなかには、弾圧、投獄、聖地破壊などを予見してのものが多い。列挙すればかなりの数になるので、そのいくつかを紹介する。

 

八月十一日 万祥殿祭典。敷地に急造の天幕を張り祭典執行。十月二十八日にも、まだ敷地だけの長生殿で、祭典を執行。第二次事件により完成を見ないことを予見されていた。

八月二十二日「昭和の七福神」撮影。この中にこめられた予言的要素については、出口和明氏が、一九九一年二月号「神の国」~十二月号に触れている。

九月下旬 王仁三郎は幹部・職員に対し、長髪、髭を落とせと命じる。投獄され、拷聞を受けることなどを見ていたのであろう。十月六日 神島二十年記念参拝のおり、王仁三郎は「神島参拝は今年で最後かもしれない」ともらす。

 

十月三十一日 秋季大祭で、象徴的・預言的な歌祭をはじめて執行する。

十二月四日 亀岡天恩郷の月宮殿神体を他の石と取り替えるのを側近が目撃。
十二月八日 第二次弾圧事件。予言的な型として、第二次弾圧事件と第二次世界大戦が六年でスライド相応する。

昭和九年七月二十二日→昭和十四年七月二十二日

昭和神聖会発会式   第二次近衛内閣成立

昭和十年十二月八日→昭和十六年十二月八日

第二次弾圧事件勃発  太平洋戦争勃発

昭和十一年四月十八日→昭和十七年四月十八日

綾部・亀岡の不当譲渡   東京初空襲

昭和二十年九月八白→昭和二十六年九月八日

大審院判決     サンフランシスコ講話条約提携

 

昭和十一年(一九三六)丙子(ひのえね)

一月二十七日 王仁三郎、髪を切られる。”六本指”で無罪を暗示した写真(本誌扉写真)。獄中では、投獄された信徒たちの出獄の日などを、それとなく知らせ、勇気づけている。

昭和十七年(一九四ニ)壬午(みずのえうま)

八月七日 六年七ヶ月(二四三五日) の獄から出所

保釈出所後から愛善苑新発足までの王仁三郎の言動は、活字記録では王仁三郎自身の歌集「月照山」等や、「大本七十年史」の該当部分、木庭次守氏が如是我聞を集めた「新月の影」などがある。総合的な年譜類の作成が急がれる。

 

昭和十八年(一九四三)癸未(みずのとみ)

二月四日 『瑞の神歌』との関連での予言。「…今年の生誕祭(出口聖師)から、瑞の神歌の「天の鳥船天を蔽ひ、東の空に舞ひ狂ひ、茲に二段目幕が開く』のである。

『三段いよいよ開く時、三千齢年の昔より、国の御祖の選まれし、身魂集る大本の、神に仕へし神人が、御祖の神の給ひたる、日本心を振り起し、厳の雄猛ぴ踏み猛び、厳の身魂を元帥に、瑞の身魂を指揮官』にして言霊を発射するのである。世界の人民は三分になるが、大本信者は三厘になるのである。

それは信者以外は只拝むだけで助かるのであるが、信者は何十年も厳の御魂、瑞の御魂の教育を受けていながら、…だからである」(「新月の影』)

木庭はこの日、王仁三郎より「『月鏡』の〈悪魔の世界〉に今度の世の中の事を書いて置いた」と聞いたことを記している。戦争という人類の内面的終末状況が恐ろしいほどに伝わってくる。次にその全文を紹介したい。

「悪魔の世界 

われかって霊界に或る夜誘われて、玄怪なる夢魔の世界に入った。そのとき自分は無劫の寂寥と恐怖におそわれた。右も左も真の闇で、面前も背後も咫尺を弁ぜざるばかりの暗黒裡に落ちこんだ。そして何となく寒さを感じ、戦慄やまずして非常に恐ろしい、頭の頂辺から脚の爪先までわが神経は針のように尖っている。

闇の中から黒い翼を拡げて、黙々として迫りきたる凄まじき物の息を感ずる。たしかに何物かが迫って来る。地震、雷、火事、親爺よりも海嘯よりも、噴火よりも恐ろしい怪物が、虚空を圧し、大地を踏みにじって、今にもわが身心に迫り来るかのごとくに思われて、大蛇ににらまれた蛙、猫に魅入られた鼠のように、自分の身体は微動(びく)とも出来ない。果然真蒼な剣のごとき光が闇をつんいて、わが目を射貫(いとう)とした。その光は次第にメラメラと周囲に燃えひろがり、八方に飛び散らがって、狂いはじめた。

さながら光の乱舞、火焔の活動で、なんとも形容のできない厭らしさであった。そしてこの物すごい火焔の海に、蒼白い横目の釣った鬼と、赤黒い巌のような鬼とが、灰紫に煮えくりかえる泥の中に絡み合い縺れ合っている。やがてその鬼が一つになって、振りまわされる火縄のように、火焔の螺旋をえがきつつ、幾千台の飛行機が低空飛行をやっているような、巨大な音を轟かせながら、天上めがけて昇ってゆく、その幻怪さ、実に奇観であった。

真暗の空は、たちまちその邪鬼を呑んでしまったが、やがて大きな真っ赤な口を開けて、美しい金色の星を吐き出した。一つ二つ三つ五つと、百千億と刻々数を増す、金色の星は降るわ降るわ、はじめは霰霞のように、雨のように、はては大飛爆のように降ってくる。

しかしその星爆の流るる大地はと見れば、白いとも白い、凝視すると、一面の白骨で、自分もすでに白骨を踏んでいる。どちら向いても髑髏の山、散乱したる手や足の骨からは、蒼白い焔がめらめらと、燃えに燃えてなんともいえぬ臭気が、ふんぷんとして鼻を衝くのであった。

自分はこんな幻怪なる世界から一刻も早く脱(のが)れ出でんと、一生懸命に走りだした。足首が千切れるばかりに突走った。しかしいくら駆けても白骨の廣野は際限がなく、疲れきって思わず打ち倒れたが、たちまち深い深い渓河へ真逆様に落ちこんだ。河水は悉くなまぐさいであった。

自分は逆巻く血の波に翻弄されつつ、河下へ河下へと流されて、正気を喪なってしまった。その瞬間、何物かにしたたか五体を殴りつけられて、我に復ったが、雲衝くばかりの、一大摩天楼が頭上にそびえ立っているのであった。

そして自分は、その門柱に衝突した途端に、助かったような心持ちになった。自分は覚えずその楼へ飛びこんで、やにわに玄関へ駆けあがった、すると目肱(まさしいばかりの電燈、いな神の大燈が、恐怖に閉ざされていた自分の魂の渓間を、皎々と照らし居るのであった。あ、過去数十年の自分の幻影は、この恐ろしかった夢の絵巻物となって、今猶時々自分の魂に刺激を与えたり、鞭捷を加えてくれるあ、惟神霊幸倍坐世」

三月「今年は未の年で羊は下にゐて草を食ってゐるから苦しみ、来年は申の年で猿は木の上にゐるから上が苦しむ(食糧に)」(『新月の影」二九四頁)

同趣旨の如是我聞(土井靖都)には、「聖師は『羊は士の上で草を食(は)むので民のことで、猿は木の上にすむので中流のこと、鳥は空を飛ぶので上流のことで、未の年(昭和十八年)は民が苦しみ、申の年(昭和十九年)は中流が苦しみ、酉の年(昭和二十年)は上流が苦しむ」と教えられた」(『新月の影」三三四頁)とある。

 

大正八年一月一日号『神霊界』に掲載した「伊都能売神諭」(大正七年十二月二十二日執筆) の一節

「…四足の餌の奪り合ひが始まりて来るぞよ。未と申が腹を減らして惨たらしい酉やいが始まるぞよ。今迄世界の人民の苦しむ大戦争を喜んで、結構な事に成りて金銀を積んで高振って居りた人民は気の毒ながら、真逆様に地獄のドン底に落ちて苦しむぞよ。…」という予言に対応してくる。

五月 王仁三郎、昭和十八年を新時代の第一年とする歌。「月照山」に収録。五十年の地上の準備の神業了へて十八年は第一年となれり昭和暦十八年の元旦は 五十年準備の充てる日にぞある御経論三千年に充ちぬるは 明治の二十四年なりける昭和十八年の年より三千年の いよいよ経論の幕は上がれり三千年と五十年にて切り替への 準備全く出来上りける等。

 

九月一日 この日の「月照山」の歌に三つ年の先の世界をながむれは 鬼や大蛇のくるひまはれる

十月三日 この日の「月照山」の歌に

小羊は地の上に食み梢には 申食(は)みて居り鳥空に舞ふかつかつに 羊のむれは草をはみ 申はゆたかに木の果をくう

樹に住める猿も又飢ゆ申の年 鳥の翼も枯れて地に落つ

 

このころ 王仁三郎、面会の信徒に「米英の号外、我敵大勝利」と書き与える「新月の影」三二七頁)。

 

また十一月に、満州部隊に入営する信者の子どもに「日本は敗ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗が立つ。そしたらすぐ道院に行きなはれ」(『大本七十年史」)など、日本敗戦を予言している。収集してゆけば、このころの時局がらみの予言は多い。

 

昭和十九年(一九四四) (きのえさる)

一月「いよいよ今年は猿が木から落ちる年である。来年は酉あいの年で一寸言はれぬ」「今年は玉国別の年である。猿に両眼をかきむしられたのは月日を失ふということで、意味のあることや」(『新月の影」)

「今、日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から白猿に両眼を掻きまわされると、三谷さんに伝えなさい」(「大本七十年史」)霊界物語四十三巻二~三章に、玉国別が眼を傷つけられる物語がある。昭和二十年八月八日のソ連参戦の予言と思われる。

 

七月二五日にも「玉国別は日本の国のことで、白毛の猿はロシアのことである。神国別も日本のことである」とか、十一月三日にも「フィリッピンは日本の坤(西南)である。昨年は未、今年は申である。今は小猿があばれているところである。うしろから白露の大猿が出てきて目を引っかく時が大変である。霊界物語の王国別は日本の事を書いたのである」など、語っている。

 

五月「グロスの島の物語(霊界物語第七十八巻)がいよいよ実現するのである。天津神が国津神になり、国津神が天津神になる。白紙で頼んだら王仁がでてやるのでその時になった、悪い者は一番に馘にしてしまう。そうせぬと大改革はできぬ」(『新月の光』(『新月の影」)

七月十八日東条内閣総辞職。小磯、米内内閣に。「ソロモン戦からソロソロ負けて、小磯づたいに米内に入る、小磯米内(ようない)国昭(くにあけ)わたす」(「大本七十年史」)

十一月「日高山(霊界物語大十七巻六章「浮島の怪猫」)のところがでている」(『新月の影』)


昭和二十年(一九四五)乙酉(きのととり)

この年「王仁が出たのはお筆先をあはさぬ様にする為である。お筆先があたってたまるものか」(『新月の影』四六二頁)

四月五日 小磯内閣総辞職。鈴木貫太郎内閣に。「いよいよ日本は鈴木野(すすきの)や」「これが日本のパトリオ(ムッソリーニ失脚後、イタリアの首相兼外相となり、ファシスト党を解党して連合国に降伏)や。お筆先にも長うは続かんぞよとあるように、長うは鈴木貫太郎(つづかんだろう)」六月末 台湾を失うことに関して、「霊界物語第五一巻第一六章暗闘を読んで下さい」と語る。

霊界物語には、大正十二年一月段階で、「しまいには、ただ一つよりない大椀(台湾)まで逃げ出すかも知れぬぞ。なにほど琉球そうにいうても、骨のない蒟蒻腰では駄目だ。:・」と、登場人物に語らせている。

八月六日 広島に原爆。

 

王仁三郎は昭和十九年秋から「広島はひどいめにあう」と語っている。四月には、広島から中矢田農園に王仁三郎を訪問した信徒に「なにをぼやぼやしとるか」と叱り、「広島は危ないから、帰ったらすぐに疎開せよ」と指示している。 (「おほもと」昭和五十五年五月号五十一頁)。疎開指示の話は多い。

広島原爆のことは、明治三十三年旧十一月十七日の神諭(昭和四十四年『大本神諭」第二集)にも、暗示的に書かれていた。

「…この出口には、どんな夢も見せてあるぞよ。出口の屋敷に蜂が土手になりて囲みた夢みせてあろうがな。天に夜行きて、天にのぼりたちてありたことあろうがな。天につまりておろうがな。これは正真で、広島を立ちて戻りたことあろうがな。唐土の鳥がわたらん先に、やれやれ帰りたと申したことあろうがな。みな都合の夢でありたぞよ。はやく世の立替えをいたして、やまと魂にもどきんと、日本の国がなくなるぞよ。」広島原爆関連を「大本七十年史』(下巻六六二頁)から紹介すると、

「火の雨が降る。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」「東洋に一つおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている』

 

「昭和十九年に面会にきた広島の信者には、『戦争は日本の負けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦は終わりだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ』と指示。

『広島は戦争末期に最大の被害を受け、火の海と化す。…そのあとで水で洗われるんや。きれいにしてもらえるのや』敗戦直前 出口栄二著「大本教事件」(一九七〇年三一書房)二五一~二頁。

「外国軍隊による支配についても、敗戦の一週間前に綾部の山水荘(王仁三郎の居宅)で、『神風でも吹かして日本を勝たせてください」とたのんだ開祖時代からの古い信者に、『心配するな、今度はアメリカが日本にきて、ええ御用をするんや」とさとしていた。

その「ええ御用」について王仁三郎はつぎのように語っている。

『日本はな、世界を一軒の家にたとえると神床にあたるのや。所が、その神床が非常に汚れて塵挨が溜まっている。掃除をせねばならぬのだが、日本人自身にやらせると血で血を洗う騒ぎをくりかえすばかりで出来はせん。神様はマ元帥という外国出身の荒男をつれてきて掃除をさせられるのや。つぎに座敷じゃ。世界の座敷は朝鮮と中国である。つぎに庭先の掃除が必要となってくる。世界の庭先とはソ連や米国にあたるのや』と。」

八月十五日 太平洋戦争終戦

「…この日は私(出口和明)の十五歳の誕生日であった。祝いに集まってくれた家族やいとこたちとともに、祖父を囲んで玉音放送を聞いた。

王仁三郎は「マツカーサー (負かさ)れた」と笑い出すが、私はぷいと立って家をとび出し、近くの寺川の水にもぐりこんで一人で泣いた。…」(出口和明『予言・確言」二九六頁)「八月十五日」という日については、大正時代から染筆するなど予示されていた。

「天祥地瑞」も昭和八年旧八月十五日に口述開始され、翌年新八月十五日に口述を終えている。『大本七十年史』にも、昭和十八年に長野の信徒に「二十年八月十五日に留意せよ。皆神山は安全地帯でB29の不安はない」と王仁三郎が語ったことが記されている(六六二頁)。

十二月三十日、吉岡発言が大阪朝日新聞に掲載される。「…自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧をうけた。火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ。のお告げも実際となって日本は敗けた。これからは神道の考へ方が変わってくるだらう。国教としての神道がやかましくいはれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただ本当の存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社が神様でなく、唯の人聞を祀っていることが間違いの根本だった。しかし大和民族は絶対に亡びるものでない。日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加はり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は全世界の軍備が撤廃した時にはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。」

昭和二十一年(一九四六)丙戊(ひのえいぬ)

二月七日「愛善苑」新発足。

 

昭和二十三年(一九四八)戊子(つちのえね)

一月十九日(旧二十二年十二月八日) 王仁三郎昇天。数えで七十八歳。

木庭次守氏は、このころ、「フト気がついて霊界物語六十七巻の再版第五章の「神仏無量寿経」の中に「瑞霊世を去りて後」とある文中の七十八頁を見ると一行目の十八字が「謹請再拝」で終わってた。七十八歳の一月十八日までは生存し一月十九日昇天の黙示であることに気がついた」(『新月の影」)と記している。


昭和五十五年(一九八O)庚申(かのえさる)三月九日「いづとみづの会」設立。大本教団改革運動始まる。第三次大本事件のはじまりとなる。十和田龍「第三次大本事件の真相」(一九八六年・自由国民社)に、「松竹梅事件」「栗のいがが内からはぜる」云々と王仁三郎がこのことを予言していたことが記されている。

昭和六十一年(一九八六)丙寅(ひのえとら)

十一月七日愛善苑再発足。愛善苑再発足が、いづとみづの会発足から二四三五日(第二次大本事件における王仁三郎在獄の日数)であることは、再発足後に気づかれ、その符合に驚かされた。(愛善青年会の機関誌『ウーピー交信」第十八号〈一九八七年一月号に経緯の記事がある)

 

未来について松本健一氏は「出口王仁三郎…屹立するカリスマ」(一九八六年、リプロボート)で王仁三郎の予言について触れ「予言とは霊感=想像力によって現実の将来図を描くことである。

この将来図、つまり文明の究極の原理を想定し、それにむかって現実を批判し革命してゆくことが、カリスマとしての王仁三郎による日本原理主義革命にほかならなかった」(二三O頁)と記るしている。王仁三郎が生涯を通して希求したのは、主神の宇宙、スサノオの宇宙への回帰であり、その宇宙のなかで営まれ育まれる人類社会のあり方であった。

近代天皇制というバラモン権力と、近代自然科学というウラル教的知が支配する日本近代の中で、王仁三郎は主神(スサノオ)の愛を行じ、われよし合理世界をこえた霊界観、字宙観を、松本の言葉を使えば「文明の究極の原理」として提示していった。

 

バラモン的な近代日本の崩壕予言や、われよしの列強が大戦争を起こすことの予言は、神秘的なものというよりも、王仁三郎のなかでは当然のことであっただろう。そうなるのが、字宙の法則なんだと。未来に関しての預言も多い。最近会った戦前からの信徒の人からも、次の話を聞いた。

「戦時下王仁三郎聖師に面会した時、月に人聞がゆくんやといわれる。そんな…とおもっていたが、後でアメリカの宇宙飛行士が月に行ったとき、改めて聖師さまのすごさを思った」と。

出口京太郎氏は「出口王仁三郎の未来予測」の主題で各地を講演したことがあった。(昭和五十二~三年ころ。『おほもと』昭和五十二年六~八月号に講演録あり)王仁三郎が未来社会について語った断片を紹介し、おもしろいものだったが、「文明の究極の原理」への問いかけは乏しかった。

 

王仁三郎は、教旨、三大学則、回大綱領、四大主義などで、宇宙的な理から展開する人類社会の骨格を示した。本誌巻頭の「浮島の怪猫」で梅公が説く「神力と人カ」も、「文明の究極の原理」であろう。もっと物理的字宙に深まれば、科学技術も進歩するだろう。内面豊かな宇宙に開かれてゆけば、王仁三郎が断片的に語るように、財産よりも、むしろ名の方を皆が求め、お金はある限度以上求めなくなり、あの”皇道経済”も実現可能となろう。安心でき健康的で豊かな生活とは何かを、内奥から自覚してくるとき、経済ブロックをどうするか、新しいエネルギーをどこに求めるか…などの模索が自然に展開され、王仁三郎が断片的に預言している未来像にリンクしてゆくだろう。

王仁三郎は人類破滅など、全く考えていない。未来はある。しかしそれは、人類が主神にもどって明るく開放されてゆくとき将来されるものだ。以下、王仁三郎が語っている人類社会の未来断片のなから、いくつかを紹介し、この「王仁三郎預言資料年譜」を終わる。

 


●飛行織はいらなくなる

比村「みろくの世には飛行機は要らないとありますが」

出口氏「みろくの世には飛行機よりももっと良いものが出来るからだ。今の飛行機みたいにあんな事をしないでもよいようになる」(「出口王仁三郎氏を囲む神霊座談会」「昭和青年」昭和七年十二月号六十四頁)

●みろくの世と物資文明「ミロクの世になれば寝ながらにして地の中を通ることができ、空をも、また水中をも通ることができると言うであるが、寝ながら通る地中というのは地下鉄道のことで、寝なら通る空というのは飛行機、飛行船のこと、水の中を通るというのは潜水艦のことであって、今がその予言の出てきた時代なのである。また蒙古には、黒蛇が世界中を取り巻き、牛や馬が物言うときに成吉思汗が再臨してわが国土を救う、という予言があるが、それも現代のことである。すなわち黒蛇とは鉄道のことであり、牛馬がものを一言うのは、人間がひどく堕落して、狐狸牛馬などの容器になってくることをいうたものである」(『月鏡」)

●ラヂオは気候を調節する「西村さんがフランスから帰朝の途次シベリアを通過して、気候が案外暖かであったというていたが、近来地上の気候はラヂオ使用のため大気に大変化をきたしておるのである。神諭にある『世界中を舛かけ曳きならす』ということを皆が小さい意味にとって、国土とか、経済とかの上とのみ思っておるようであるが、神様の舛かけ曳きならしはそんな狭義の意味のものではない。気候までも舛かけ曳きならされるのであって、ラヂオもその働きの一部分をつとめているのである。ラヂオは音波を輸送するごとくに、寒気、熱気をも輸送するもので、寒帯の寒気は熱帯に運ばれ、熱帯の熱気は寒帯に運ばれて世界中の温度がだんだん平均してくるのである。平均するというても、比較的のことであって、熱帯はやは暑く、寒帯は冷たいが、寒暑の度が今までのように激烈でないように調節されるのである。温帯はあまり変化はない。「北がよくなるぞよ」との神諭もまた這般の消息を伝えているのである。また大本祝詞の『暑さ寒さもやわらかに云々』とあるもこの事である」(「水鏡」)

●霊気をもって電気にかえる霊界物語四巻五十章「神示の宇宙五」に、電気電波文化から霊気霊波文化へと推移することが書かれている。「…無線電信や、電話やラヂオが活用され来たるは、五六七の神政の魁として、もっとも結構なことなり。しかしながら物には一利一害のともなうものにして、善悪相混じ、美醜たがいに交わる造化の法則に漏れず、便利になればなるほど、一方にまたそれに匹敵するところの不便利なることが出来るものなり。電気なるものは、前述のごとく宇宙の霊素、体素より生成したものなるが、その電気の濫用のために、宇宙の霊妙なる精気を費消すればするだけ、反対に邪気を発生せしめて宇宙の精気を抹消し、ために人間その一切の生物をして軟弱ならしめ、精神的に退化せしめ、邪悪の気宇宙に充つれば満つるほど、空気は濁り悪病発生し害虫増加す。されど今日の人間としては、これ以上の発明は未だ出来てをらず、ゆえに五六七神政の過渡時代においては、もっとも有益にして必要なものとなりをるなり。も一歩進みて不増不滅の霊気をもって電気に代えることになれば、宇宙に忌まわしき邪気の発生を防ぎ、至粋至純の精気によりて、世界は完全に治まり来るなり。この域に達するにも、今日のごとき浅薄なるものを捨て、神霊に目醒めざるべからず。大本信者の中には、電気燈を排斥する方々が、たまたまあるやに聞けども、それはあまり気が早すぎるなり。これ以上の文明利器が発明されて、昔の行燈が不用になりしごとくに、電燈不用の時機に電気を廃すればよし。また字宙には無限の精気が充満せるゆえ、何ほど電気を費消しても無尽蔵なり。決して、無くなるといふ心配はいらず。また一日一電気濫費より発生したる邪気も宇宙無限の水火の活動によりて、新陳代謝が始終行なわれをるゆえ大丈夫なり。この新陳代謝の活用こそ、神典にいわゆる祓戸四柱の大神の不断的活動によるものなり。…」

●世界を十二ブロックに「…是から世界は十二ヶ国に約まりて日本の一つの王で治まるのであるが、其所に成る迄には世界に大混雑が湧いて来るから、よほどしっかりと腹帯を締めておかんと、途中で原が破れるようなことが出来するぞよ…」(「伊豆能売神諭」大正八年一月二日。『神霊界』大正八年一月十五日号)

●経済ブロックの創設「皇道経済実現には、第一に自給自足の経済ブロックを創設することである。

山陰ブロック、山陽プロック、四国ブロック等などで、ブロック圏相互に有無相通ずることである。だんだん大きくして日本ブロック。それからアジアブロック、アメリカブロック、エウロッパブロック。アフリカブロック。オーストラリアブロック。北米ブロック。南米ブロックと大きな経済ブロックを創設して大きなブロック相互の有無相違によって、全地球の自給自足経済までに拡って行くことが神の経済経綸である」(昭和一八年『新月の影」)

●都市は十万人に「王仁は都市は十万になると言ふとるのやで」(昭和十九年六月十七日『新月の影』)

●空中に文字発信…ニ十一世紀初期の交通機関「松彦『昔のように今日(五十世紀) の時代は、毛筆や、鉛筆や、万年筆などの必要はありません。ただ指先をもって空中に七十五声の文生を記せば、配達夫はただちに配達してくれますよ。…この交通機関は二十一世紀の初期から開始されたのですよ』(霊界物語十五巻二十一章)

●二十四世紀は天国浄土の完成時代「弥次彦『…二十四世紀の今日に、原始時代のような、古い頭を持っているから判らぬのだ。今日の裟婆をなんと考えている、天国浄土の完成時代だ。中空を駆ける飛行機、飛行船はすでに廃物となり、天の羽衣という精巧無比の機械が発明され、汽車は宙を走って一時間に五百マイルという速力だ。蓮華の花は所狭きまで咲きみだれ、何ともかとも知れない黄金世界が現出してをるのだ。…」(霊界物語十四巻八章)

●五十世紀の地球「松彦『…現界は二十世紀という、魂の小さい人間の住まっていた時代を超過し、既に三千年暮れている。現界で言えば、キリストが現れてから五十世紀の今日だ。世はだんだん開けるにつけて、地上の人聞は労苦を厭い、歩くのにも電車だとか、自動車、汽車、風車、羽車などに乗って天地聞を往復し、少しも手足を使わないものだから、身体はおいおいと虚弱になって、もはや五十世紀の今日では、コンナ弱々しい人間になってしまったのだ。しかしながら、十九世紀の終わりから二十世紀にかけて芽を吹きだした、三五教の教を信じ不言実行につとめ、労苦を楽しみとしている人間の系統に限って、それと反対に六尺以上の体躯を保ち、現幽神界において、神の生宮として活動しているミロク人種もありますよ」」(霊界物語十五巻二十章「五十世紀」)

 

●”皇道経済”が生動している社会

本誌創刊号所収の王仁三郎の論文「大正維新に就て」(大正六年)は、人類の未来像ともいえる。預言的に言い換えてゆける内容である。世界がひとつの大家族になる。お金で心まで支配するような社会はなくなる。地域に即し各自が大地に接した自給経済体制ができる。税金はなくなってゆく。内面的人類的想いから、肉食は求めなくなる。適正な住居と環境が、社会の基本として大事にされる。自然国土の天恵(エネルギー、食糧、健康等など)を受ける工夫がなされてゆく。私有財産を必要以上に求める必要もなく、各自の人生に満足できる。主神とその教えにもとづき、現幽神三界を貫く人生・社会の価値基盤が準備される。その基盤のうえで、各自の素質に応じた働きの場ができる。物資情報の交通交流システムの機関(国家)と一人一人がネットワークできる。交通機関は無料になり、情報料もいらなくなる。(以上)