明治三十七年(一九〇四)甲辰 (きのえたつ)筆先

 

明治四十二年までは、(注…王仁三郎を)神が外に連れ参りて、経論の橋掛をいたす。…明治五十年を真中として、前後十年の間が世の立替の正念場であるぞよ。…明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構な日であるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ。明治四十二年になりたら、変性女子がボツボツと因縁の身魂を大本へ引寄して…」(「神霊界神諭」明治三十七年七月十二日。『神霊界」大正六年七月号)。 執筆日が王仁三郎誕生の七月十二日であることなど、出口直の筆先に擬した王仁三郎の神諭と思われる。「神霊界」発表時に加筆したものか。

大正六年(一九一七)丁巳(ひのとみ)

七月 「神霊界』七月号に、「明治五十五年の三月三日、五月五日」と月日を明示する神諭(本稿明治三十七年の項参照)が発表される。〈明治五十五年立替説〉(大正七年六月、浅野、友清達が唱えだす)の論拠となった。「…明治五十五年の三月三日、五月五日は誠に結構なであるから、それ迄はこの大本の中は辛いぞよ。明治四十二年になりたら…」(「神霊界神諭」明治三十七年七月十二日、『神霊界」大正六年七月号)後に王仁三郎は、霊界物語三巻序文(大正十一年一月)で詳細に解説している。「三月三日」は「三ツの御魂なる月の大神の示顕が、天地人三体に輝きわたる日」のこと、「五月五日」は「月光世に出て万界の暗を照破す、これ言霊学上の五月五日」などと、内義的に解釈し、「暦学上の月日でない」としている。十一、十二月 王仁三郎、預言歌「いろは歌(その一)」(十一月三日作)、「大本神歌」(十二月一日作)を、大正六年十二月号 大正七年一、二月号に発表(本誌七十四、七十六頁に全文掲載)。「おちこちの寺の金仏、金道具、釣鐘までも鋳潰して、御国を守る海陸の、軍の備へに充つる世は、今眼のあたり迫り来て、多具理に成ります金山の、彦の命の御代と化り、下国民の持物も、金気の物は金火鉢、西洋釘の折れまでも、御国を守る者の具と、造り代へでも足らぬまで、迫り来るこそ歎てけれ。くに挙り上は五十路の老人より、下は三十五の若者が、男、女の別ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの速からず…」(「いろは歌」その二)などなど、日中戦争から日米戦争、ソ連参戦、太平洋戦争戦時下の諸状況が、おどろくほどの的確なイメージで預言されている。